読谷村史編集室 読谷村の出来事を調べる、読谷村広報データベース

1956年10月発行 読谷村便り / 2頁

読者の声 知花英康 観音堂について

読者の声
知花 英康
観音堂について
 旧暦の九月には観音堂にお参りする人が多い。観音様は印度から支那へ支那から日本へ日本から沖縄へ伝わった慈悲深い佛様でどんな人の悩み苦しみでも救い、又人の希望もとげしむる萬有の力を持って居らるるというので千手観音とも云い大方は温顔の女像である。
 観音堂は沖縄には首里、美里、嘉手苅(石川市)金武、玉城、奥武、八重山、石垣、読谷喜名等にあるが、首里の観音堂は一六一六年(三四〇年前)尚豊王が薩摩に人質となった時、父尚貞が私事として祈願し、「尚豊善なく帰国せば観音像を観請して一宇を建てん」と約された處翌年尚豊無事帰国したので観音堂を建てたとの事その後海上平安を祈る渡航者の崇拝が深くなって「上り口説」にも詠まれ又、苦悩をはらし希望を訴える参詣者が多くなった。
 喜名の観音堂はいつ頃出来たか記録がないので不明であるが建物の状態から見て今から百二、三十年前でないかと思われる。お参りする人も多いが殊に旧九月十八日には村で御祭りする慣例であったが、時世の推移に連れて信教の自由、祭費の捻出等が考慮せられ戦前は役場敷地内に出来た蜜柑、実芭蕉等の売上金を以って祭費に充て村費からの支出は見合はされていた。

利用者アンケート サイト継続のために、利用者のご意見を募集しています。