みんなでやる生活改善(四)
生活改善という言葉の吟味
生活の合理化-生活の改善-生活の改革
一、生活を改善する意味のことはいろいろの言葉でいいあらわされています。”生活の合理化”という言葉もその一つです。この言葉は日常生活の金銭的、物質的、時間的労力的”ムダをはぶく”といったようなときに使われますが、どうも理知的な冷たいひびきをあたえるようであります。
もちろん、生活を合理的にすることは大切なことで、とくにわが沖縄ではとかく因習を重んじ、合理的を軽んずる気質が多いだけに、このようなことは必要でしょう。しかし、わたくしたちの生活改善の目標は、ただ単にそういったムダをはぶくといったような理性的な、冷たいものではなく、もっと人間的なあたたかいものでありたいと思います。わたくしたち生活の改善の目的は生活を幸福にすること、楽しい生活を創造していくことにあります。だから生活を改善することはこの目的にかなうことが目標であって、合理化はそのための手段であります。
生活改善は修身のお説教になってはいけません。ときには不合理でも、それが生活を楽しくするものであったならば、それでよいではないでしょうか。たとえば、お父さんが一ぱいの晩酌を楽しむ、それが家計に大きくひびくのではなく、他の家族をギセイにしたものではない限りは、そのムダも許されてよいではありませんか。なぜならば一日働いて疲れたお父さんが、一ぱいの晩酌によって楽しみ、その楽しそうなお父さんの顔をみて、家族もまた慰さむ、家族のそういったお互いのいたわりの心がほしいとおもいます。そのようなムダなら決してとがむべきではないでしょう。もちろん、お父さんだけが酒を楽しんで、家族がギセイになることは許されないけれども。
わたくしたちは欠陥の多い人間であり、その人間の生活をお互にいたわりあって世渡りする。そういったところに人生の味わいがあるのではありませんか。
二、つぎに”生活改善”という言葉はどうでしょうか。
近ごろ、生活改善という言葉が通俗的に使われているため、この言葉が与えるひびきは、どうも末稍的な、そして物的方面だけの改善のような印象を与えるようであります。たとえば、台所の改善をしたら、それで生活改善ができたかのごとくいわれやすく他の生活部面への改善、とくに精神的方面の頭のきりかえにまでなかなか進みにくいようであります。
三、わたくしたちの目標とする生活改善は、こうした物的方面の改善だけでなく、精神的方面もまたこれに伴って改められなければ、その目的を達したとはいえません。すなわち、封建的な生活態度が改められて、近代的な生活態度に頭の切りかえが行われること、こうした精神的な方面の改善が、形の上の改善とともに行われるのでなければ、生活改善にほんとうの魂がはいったとはいわれません。形の上の改善(具象的な改善)は精神的な改善の一つの手段にすぎないのであります。
このように形の上からも、心の上からも、両方の面にわたって根こそぎ革新するという意味から云うと、”生活改善”というよりもむしろ、”生活改革”といった言葉の方が適切であるように思われます。
以上述べた”生活の合理化”、”生活の改善”、”生活の改革”の三つの言葉自身に大きな差異があるわけではなく、しいて区別する必要がないようにおもわれますが、ここでは、生活改善に対するものの考えかたを示す意味で、この三つを区別して考えてみたのであります。
本紙では便宜上、いましばらく通俗の”生活改善”という言葉をつかいますが、わたくしどもが考える”生活改善”の真意は”生活改革”にあるわけであります。
生活改善のきっかけ
一、何事でもソウでしょうが、生活改革を推進するについても、機会をつかむことが非常に大切であります。これまで生活改善をした村の改善の動機をきいてみると、村の指導者が何かの機会をうまくつかんで、それをきっかけとして改善運動を推進しています。
その機会というのは、心に何かハッと衝撃をうけるような出来ごとあるいは「これじゃいかん、なんとかしなければ」といったような、心にかたく決心する機会、みんなが何かに深く感動したような機会をうまくつかむことが大切だと思う。
だから生活改善を推進するのには、つぎに述べるように、天から与えられた機会の訪れを逃がさないよう、うまく利用すること、もしそのような機会がなければ積極的にその機会を作り出してみんなに感動を与えてやるのです。そして心の衝撃がなければ古い因習と惰性にさびついた人々の生活を革新することはなかなかむずかしいでしょう。そしてこの衝撃感動が大きければ大きいほど、改善の推進力も大きくなるわけであります。
以上のことを要約すると、生活改善を推進するきっかけには、
(A)機会をつかむ。
(B)機会をつくる。
この二つが大切なのであります。
二、まず第一には”機会をつかむ”ことが大切であります。
そのような機会はどこにあるかというと、多くは生活に苦しんでいるとき、その苦しみのなかに与えられるものであります。
たとえば水が不便で非常に難儀しているとき、伝染病が発生して恐怖にさらされたとき、生活改善をすすめるのにとってもよい機会であり、もちろん、苦しい目にあうことや不幸は求めてすべきことではなく、できるなら避けたいことであります。だがたまたま不幸な、苦しい目に出あったとき、普通のものは、自暴自棄に陥ったり苦しいときの神頼みで、迷信にふみ迷ったりします。
しかし、もしこの苦しい経験をも生かし、再びこのような苦しい目にあわないよう、苦しいなかから発奮して、この禍根を絶つことに、みんなが一致団結、起ち上ったならば、それこそ禍を転じて福となすもので、それにはこの苦しみはもっともよい機会でありましょう。このもっともよい機会をみすみす逃してしまうか、あるいはこの禍を福へ転ずるかは、家族、あるいはリーダーの理解力と、力量であり、同時に責任であるとおもいます。
(つづく)