読谷村史編集室 読谷村の出来事を調べる、読谷村広報データベース

1961年2月発行 読谷村だより / 2頁

八重山移民国を訪ねて 

〔56号1ページの続き〕

た部落中の皆さん久し振りの体面で「ガンジュウヤティ」で握手をかわし早速公民館に案内されました。
 こちらは一九五二年に字波平と楚辺から移住したところで五七年から公民館を設置し下部組織を強化して部落行政を行っており生徒会、婦人会、4Hクラブ、生改グループ、農事実行組合等があってその活動は実に活発であります。農事実行組合では製糖工場十五屯を設置し共同圃場を経営して甘蔗作及び木麻黄苗等を栽培しており、婦人会では婦人学級を以って地位の向上を図り学童奨励、子供の教育に熱心であり更に毎週一回清掃検査を実施して衛生思想を昻めている。生改グループでは一九五五年結成以来、作業衣及び食生活の改善、環境衛生の整備、新生活運動の推進体として活発であります。
4Hクラブも農事研修にとつくんでおり他の団体と相互協力のもとに運営しており各団とも共同圃場を経営し甘蔗、パイン、バナナ等を主に栽培しているがその収入は団と公民館の運営費に充てております。このような活発な運営によって一昨年は全琉代表として生改グループの知花静枝さんを全国生活改善実績発表会に出場させ、続いて昨年は4Hクラブの知花義光君が全国農事研究実績発表大会に出場しその名誉を博したことは御承知の通りであります。更に以前から新正月を実施しており各戸に三槽式便所を設置してあります。
 それから営農面では一戸平均一三二アール(約四千坪)を開墾しその主なる作物は甘蔗で次がパイン、甘藷等でありますが今期収穫の甘藷作面積は一戸平均約四十アール(四反歩)といわれ反収もブリックスも最高の記録であり、またパインも豊作であり大家畜をたくさん飼育しており実に頼もしく思いました。開拓地をまわってから富野小中学校を訪問し校長先生以下全職員に迎えられここで学校の概況についての説明を聞いて後、マラリヤのために犠牲になられた故与儀加那氏のお墓詣りをして再び公民館に案内され、上地武成氏、宮城照明氏、池原次郎氏、上地源吉氏等の幹部をはじめ、富野学校長大浜孫佑氏外職員、部落中の皆様と共に懇談会を開き、かずかずのお話しを胸におさめて本日の日程を終りました。

美野部落
 八重山地方庁、並びに開発事務所の御厚意によりピカップ二台を配車して戴き資源第一係長上原正員氏、開発事務所、技手松堂国夫氏御両人の案内のもとに一台は東線、一台は西線に分乗し石垣市の北方約四万二千メートルの距離に当るやや平坦地の大浜町字野底美野部落に着きました。当部落には一九五四年字楚辺、伊良皆、波平から計十六戸七三名を送り出したところでありますが同時に石川、美里、具志川村からも移住いたしまして現在では戸数四十戸、人口二三一名となっております。この野底地区にはたくさんの移住部落がありますが、美野部落はその北端にあって石垣島一周線に沿って西側は平坦地にして住宅地域となり東側は山岳地帯であるが山の中腹までたくましく開墾されております。
 早速伊良皆御出身の伊波厚徳氏宅に案内され団長伊波栄敬氏(石川市御出身)をはじめ本村御出身者全員が集められ挨拶もほどほどにして懇談会を開きましたが日程の都合で急いで開拓地をまわり野底小中学校を訪問いたしました。
 当部落における一戸当りの開拓地面積は一六○アール(約四、八○○坪)といわれその五○%はパイン栽培で残りの五○%が甘蔗と甘藷を栽培しており道路の東側には広汎のパイン園が横たわりその主産地として有名な部落でありますが、伊波厚徳さんのパイン栽培はその最高で六○年期において一千八百弗という莫大の収入を挙げられたといわれ実に凄ましい限りでございます。

明石部落
 美野部落を出発し越来開拓圃を経てしばらくすると石垣島一周線を結ぶ交叉点があってこれから更に北え勝連部落を通り伊原間牧場を見惚れているうちにピカップは約一万メートルを駆って平原地帯の中に木麻黄の茂った大浜町字伊原間明石部落に着きました。
 そちらは一九五五年に喜名、楚辺、座喜味から計十六戸、九八名を送り出したところでありますが同時に大宜味、屋部、久志、具志川、コザ、北中城、玉城、首里とも合併され更に地元からの参加等で現在では総戸数六三戸、人口三九三名を擁したかなり大きな移民部落であります。早速楚辺御出身の比嘉盛昌氏宅に案内されましたが出迎に見えた皆さんに対する御挨拶もそこそこにして直ちに開拓地帯を廻り明石小中学校を訪問いたしました。
 この地域一帯は元伊原間牧場であっただけに伐採、焼払、抜根等の大きな障害もなく開墾は至って能率的に行われたことと思いました。一戸当りの開拓地面積は水田を含めて一九○アール(約六千坪)といわれ甘蔗作が主で葉煙草、甘藷、水稲等を栽培しております。尚大家蓄農家が多いので多角経営農業を進めております。住宅地域内は砂地であるが区画が整備され造林五ヶ年というのには調和よく成木した屋敷林は全く肥沃の地質を証明するものであると思いました。
 広汎な農耕地、豊作の甘蔗畑を一廻りして後再び比嘉盛昌氏宅にあがり村出身者全員と共に懇談会を開き楽しい雰囲気の中に日は暮れて名残惜しく石垣市に帰りました。
 学校教育について簡単に申し上げます。富野小中学校は一九五二年川平小学校富野分校として当時は教員二名、生徒十四、五名をもって開校したといわれるが一九五七年に富野小中学校として独立、爾来すばらしく発展し現在では校長以下五名の先生と生徒数八三名で校長大浜孫佑氏を中心にPTA活動が盛んで生徒会の指導、校外生活指導、保健体育指導、道徳教育等綿密な計画によって熱心な教育が行われております特に言葉のほうは励行の段階を越しており一人でも方言を使う子供はおりません。道で朗らかに挨拶して往き交う態度は実に立派であり、

※写真「富野小中学校 座席の左から2番目が大浜孫佑校長」
「上地武成氏の甘蔗園 1960.8.12植付 面積600坪 反当り6俵施肥」原本参照

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