読谷村史編集室 読谷村の出来事を調べる、読谷村広報データベース

1967年1月発行 読谷村だより / 4頁

池原蒲二氏の頌徳

池原蒲二氏の頌徳 
知花英康
 読谷村は今でこそ、医学界、教育界、官公庁等に多士済々であるが、今から五十年前(大正二年)頃は人物難で村内三校の教職員は勿論役場吏員までも他村から来るという状態で実に寥々たるものであつた。
当時読谷では小学校の義務教育だけは受けさせるが、小学校を卒業したら直に農業というのが常道のように考え卒業生も首里に師範学校や中学校がある事さえ知らぬという状態であつた。元主席比嘉秀平民は大正二年三月の古堅校卒業式に筒袖の和服に新しい袷を着けて卒業生総代として証書を受けて居た可愛い坊ちやんであり屋良朝苗氏もまだ小学校生であつた。私はその二月に師範附属校に努めていたが、県から無理やり村長に押し出されて来たのであるが、村の将来のことを考えた場合「人材を養成しなければならない」と痛感し、何んとか村から一人でも多く上級学校へ進学させなければならないと考えている時に、幸わい当時の古堅学校の校長、成富敬吉氏が役場に来て学事奨励会を設立したいと云われたので私は直に賛成し会則の起案をすることにしたが当時沖繩にはどこにも学校単位の学事奨励会は無かつたが、中城村では大田間切長時代に人材養成施設があるという事を私はかねて聞いて居たので、成富校長が中城村に出張して調べて来たのであるが、余り参考にならなかつたので、それではと成富校長が会則を起案し、いよいよ古堅校区の区長、議員、各字代表を集めて古堅校学事奨励会設立協議会が開かれたのであります。その時楚辺代表の池原蒲二(蒲喜名口)さんが立つて方言で「吾々は一、農業二、商業だ、墨人(学問した人)は家を喰い村を喰うもので、その筆の先は槍の先、実に危険である、その実例はこれこれと村内墨人の実例をあげて斯る人間を作る事は大反対だ」と率直に遠慮なく云つたので成富校長始め並居る人は苦笑して下を向いて沈黙して居るのみで折角の会合が流会になろうとしたので、私は何んとかこの場面を切りぬかねばならぬと、こつけい半分の方言で「今池原さんが墨人は家を喰い村を喰う者だと云われたが、それは間違いである。池原さんの墨人というのは、ほんうの墨を習つた人ではない、炭を習つた人である、ほんとうの墨人は家を輿し世の為を計る人である、墨人と炭人を間違つてはならぬ」と云つたら、池原さんは再び立つて、それでは学事奨励会は、ほんとうの墨人を作る為ですかと云つたので、成富校長が立つて「そうです家の為、村の為になる人を養成せんが為です」と答えたので、池原さんは、それでは私も賛成です、といつたので皆拍手喝采、ここに懸案の学事奨励会が成立し小学校の子供は勿論、役場吏員、其の他村の指導層にも深い刺戟と感銘をあたえたので、これによつて渡慶次校、読谷校にも学事奨励会が出来、追つて村育英制度も出来たので人物が輩出して、今日に到つたが、戦後学事奨励会はPTAとなり、今日のPTAや育英会は読谷がその発祥地であることを忘れてはならぬと思います。
池原さんは、ただ口先で学事奨励会の設立の賛成したのではなく、直に実行に移し楚辺区の学事奨励、人物養成に特に力を注ぎ、その長男繁永君を役場の吏員に、長女の竹(大湾竹先生)さんを女子師範に入れて卒先垂範したので楚辺は勿論、この美風が広く村内に伝えられて今日の読谷を作つたのである。戦後新読谷村建設の時は灰虚の中から立ちあがつたので、ほんとに無一物であつたが、幸に戦前養成された読谷村出身の人物は故比嘉秀平氏や屋良朝苗氏を始め多数の教育者や、官公庁で活動して居る人材が多かつたので、いろいろの方面で非常に助かり「百年の計は人を作るにあり」という言の真になることを私はしみじみ感じた。あの読谷高校設立の時、政府当局は高校は戦前に比し多過ぎるので整理するのだと、容易にOKを云はなかつたが、その理由は教育組織難にあつたらしいので、読谷高校の教育組織は決して御心配はかけませぬ、私案がありますと、読谷出身の人物は斯れ斯れとその氏名を発表したら、それでは考慮するという事になつて逐に読谷高校が実現したのである。
 それで私は読谷高校の前を通る時は池原さんの面影を思い出すのであるが、今日読谷村出身の人物は皆池原さんのお陰だと。いつても過言ではないと信ずるので村教育委員や教育関係者が発起して広く同志を幕り適当の時機に適当な方法で池原蒲二さんの功徳を顕彰しこれを永遠に伝え報恩感謝の意を表わす必要は無いでしようか、「慶良間は見えるが睫は見えない」と云われぬようにあえて読谷出身の職者各位に訴える次第であります。
知花 英康

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