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1967年2月発行 読谷村だより / 1頁

すっかり安定した移住地 開拓移住 十三周年に招かれて

すっかり安定した移住地 開拓移住 十三周年に招かれて 
村長 池原 昌徳
 このたび、八重山に移住した栄部落の開拓移住十三周年記念式並に、公民館落成祝の案内を受けて、久しぶりに本村から送り出した八重山移住地を訪問する機会に接しました。 御案内を受けた栄部落は石垣市の北方およそ、四二キロの地点にあつて、入植当時、大浜町美野団と呼んだところですが、一九六四年六月、石垣市と大浜町の合併により、また美野団と越来団が合併して現在では、石垣市字「栄」と改名、戸数七五、人口四六六名で読谷村を筆頭に、具志川、美里、金武、北谷の順で、沖縄本島十九ヶ市町村と、宮古からも参加してできた移住部落であります。
「一九五四年から指折り数えてここに十三ヶ年、われわれがきり開いた農耕地、パイン畑、甘蔗畑、新しい公民館など、全く無一文の中から立ち上がつて築いた発展の状況を見に来て下さい。これまでの御支援有難う。このよろこびを共にし、明日の建設に協力して下さいと」案内を受けたたくさんの人々にまじつて、中村哲二郎美里村長、高江登具志川村助役、池原昌徳読谷村長の三名も母村からかけつけて、この意義ある式典に出席し、よろこびをわかちあうことができました。
 式典の日、一月十四日、南国の島、八重山の空は青く日本晴れ、絶好のお祝日和であつた。製糖期の忙がしい時期にと思つたが、こちらはパイン栽培が主だから、農繁期ではなく、あの家この家、お祝にかけつけたお客様迎えて大繁昌、準備万端ゆき届いて流れる公民館のマイクにのせて、部落中大にぎわいでした。
 今日こそは、太くて固くなつた掌を誇るお祝である
 あなたも私も入植と同時に家を建て、道を開き、粗食の中で開墾に明け暮れた過ぎし十余年に、最高五〇〇アール(一五、〇〇〇坪)を開墾し、一戸平均二一〇アール(六、三〇〇〇坪)の専業農家となり他の移住部落に先じて四〇余年坪のすばらしい公民館を新築した、よろこびの顔が向い合つていました。
 いろいろと生れ故郷はちがつても、こちらはみんな、八重山の資源開発の使命感に徹する者同志、土を愛し農業を転職と思い、大地主の夢をもつ、善良な心と忍耐が堅くむすばれて、今日の繁栄を築き上げたのであろう。
 一月十三日から十六日までの日程により、本村から送り出した米原、明石部落を訪問したが、どの部落も相当な土地を開拓しており、パインと甘蔗作が主で、パインの出来は史上最高の農作といわれたが、甘蔗作はブリツクスが低い上に、ねずみの被害が外く、安い甘蔗価格、トラツシユ制実施の問題等があつて、いささか農家の生産意欲を減退しており、農業経営の抜本的対策が要求されております。
 このたび、税関八重山支署の発表した、一九六六年の外国貿易輸出入通関状況のまとめ、によれば、輸出額が一、〇一六万四千ドル輸入額二四七万二千ドルで約七〇〇ドルの黒字であり輸出品目の主なるものは、パイン罐結めが筆頭で分密糖、パプル材、パインジユースなどとなつており、沖繩本島における基地依存度の高い消費経済に比べて、八重山は正に安定経済であり、我が琉球の基幹産業の本場であるといえましよう。
 この移住地にとつて最もほしいものは、電気とテレビ施設であるが、電気は、全島電化計画によつて目下配線工事中であり、テレビジヨン工事も昨年十一月に着工したとのことだから、沖繩本島と同じように、明るい電灯の下で、好きなテレビ番組を楽しみ、家庭電化製品の実用も、間もなくやつてくるだろう。
 三泊四日の極めて短かい日程のため、詳しく見たり聞いたりするとはできなこかつたが、七ヶ年前に比べ各部落の落着いた姿、生れ変つた石垣港、産業、文化の各面に、躍進をめざすものがある。製糖期の忙しい時期に、交通の便、宿泊の世話、歓迎会等、心からのもてなしを受けて感謝に堪えません。米原、栄、明石の皆さん、また逢うまでに、より豊かな、文化の香り高い部落をつくつて下さいと、祈りながら八重山旅行報告を終ります。

※写真「栄公民館」は原本参照

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