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1967年7月発行 読谷村だより / 4頁

父兄の一員として共に考える -夏休みをむかえて-

父兄の一員として共に考える -夏休みをむかえて-
 「子供は家に居ると厄介ですね。夏休みはなくてもよいのに・・・・・・・・・」
 さあその厄介者が四十日も一緒に居るのですよ。
 「隣組でピクニックでもして遊ばせてやろうじゃないか。」
 金を払って厄介払い?
 安易な気持で遊ばせて自己満足(?)これでは子供に浪費を教えるばかりか親として、常に最小抵抗線を辿ろうとする姿をさらけ出すようなものではなかろうか。
 このような気持で行事を持っても決して子供は育たない。むしろ同行の他の家族に目をうばわれ、うらやむ心しか生じないのではないか。「よそのしばふはきれいだから・・・・・・。」
 沖繩の子供ほど一人ぽっちは居ないのではないだろうか。青年、大人、各年代階層とのつながりが本当にうすい。それぞれが別の方に向って互に向き合う事がすくない。互に対話が絶え久しい。
 伝統的社会からいきなり形だけは近代社会の仲間入りを余儀なくされた私たち
 かつては生産家族ともいうべき中で共同で耕し、食べた。それはすべて一体で親と子も強い心のキズナで結ばれていた。
現在の消費型家族-この目まぐるしい変化の中で私たちは生計を支える才覚は得た。然し家庭の中で私たちは俸給運搬人になり下り、子供は無賃下宿人に化して居ないだろうか。心の通わないところに教育はないと言えよう。
 生計の手段は変っても人間の生き方は変らない。むしろ方法や手段が多岐にわたる程親と子は多く語り合わねばならない。そのような意味でも近代家族はFamily of orientation の役割を多く課されると思う。
 私たち親自身が近代メカニズムに巻き込まれることなく、子供たちを期待される歯車像へ追い込むのでなく、家庭は人間の体臭を充満させよう。そして私たちはもっと自信と権威をもって子供に接しようではないか。人生の先輩として・・・。人間として、親子としての触れ合いを進んでもとう。私たちがかつて親からそうされたように。
 なる程中学生ともなればむづかしい。彼等は彼等なりの主張を持つからだ。大人と大人は尚むづかしかろう。
 人間としての主張を持てるようになったことを喜びよい助言者になる事が大事ではないか。 
 反抗期などと軽々しく口にすべきではない。もともと反抗期ということばは心理学者や教育学者の指導の上の見方であって親の使うものではない。うかつに使って今は子供に逆用されてはいないか-反抗の口実や非行のいいわけに・・・・・・。
 とかく、じっくり落ち着いて集中して物事に当ろうとする態度がすくないといわれる現代っ子。その上テレビは一そう、うすっぺらで、小間切れ、しかも娯楽本位の知識を一方的に与え受身の状態にしかない子が何と多いことだろうか。
 変声しかけた声でテレビに向かって今日も歌っている「マッハ・ゴーゴーゴー」
 長い夏休み。子供にとってシャクなことは宿題が多いことだろう。
 私たちも子供に負けず大きな課題を背負っている。この機会に親と子の対話をとり戻そう。仰々しく隣組だの持ち出さずに、家族会議などと大げさな、わざとらしく構えずに。
 テレビをつき合い、たまには「いろいろあらな」と流行語の一発も出したらいかが?
 古堅中学校 渡久山朝章

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