読谷村史編集室 読谷村の出来事を調べる、読谷村広報データベース

1968年3月発行 読谷村だより / 4頁

くらしを考えよう

くらしを考えよう 生活普及員 知花 幸子
▼生活と消費
 人並な生活を営む為にはいうまでもなく、裏づけとなる所得がなければなりません。その意味から農家生活の向上には、所得の多い少ないが、まづ問題となりますが、では一般に所得の多い家庭は、生活水準が高く、少ない家庭は生活水準が低い、と相場はきまっているものでしようか。勿論生活に於ける消費の量が、その生活の程度を示しはしますが、同じ所得の家と家とをくらべてみた場合に、しばしば生活のしかたによって生活程度にかなりの差ができるという事実があります。つまりここで所得の多少と生活程度の高低を同一視してしまってよいだろうか。というぎもんが起きてくるわけです。いいかえると個々の家庭生活をとりあげる場合に所得と増加の程度だけで、その家の生活程度をはかってはならないこと、又消費がそのまま生活であるという見方をしてはならないことを教えられます。農家の場合でも農業所得が上がりさえすれば、生活水準が上がるように考えている人が多いようですが、所得が上ったからといってそのことがそのまま生活の向上になるとは限りません。農業の生産性の向上によって高められた所得をどのように使うか、またその所得につりあった生活をするにはどうしたらいいかということが、非常に大切な問題なのです。そして、ここにおいて、いかに生活を合理的に運営していくかという分野があり、生活改善の必要性が認められると思います。
▼消費と最後生産の場として
 男性はよく「おれがかせいでいるんだぞ」と女性とくに主婦だけが消費者であるかのようにいいます。確に、主婦は消費者であり、家庭は消費の場ということができます。ところが、それとともに、家庭は経済的には、最後の生産の役目を、特に主婦を中心としておこなっています。例えば、大根を買ってきても、そのまま食べるわけにはまいりません。どろも洗い落したり、葉っぱをとって、すくなくとも、塩をかけるとか、ゆでるとか、なにか致します。といのはひとの口に入るまでには、生産の工程を通らなければならないということです。布を買ってきて、そのまま身につけて子供達を学校に行かせるわけにはいきません。布を買うことは消費ですが、ブラウスや、パンツなどをつくるのは生産です。主婦はそのような生産の最後の過程を行っています。家庭生活がその面でうまくいっているかどうか、浪費になっていないか、一定の収入で、上手な消費が行なわれているかどうかは、家庭における大きな役わりだと思います。
例えば、ビタミンCがふくまれているやさいを買いながら、余り長く煮すぎてCを破かいしてしまったり、野菜を煮て灰分を含んでいる汁をすててしまったり三束十仙のホーレン草を唯安いといって買込んで家族が少ない為に一束しか使わなく、残りの二束は食べそこなってしまうことがあったとすると三束十仙のホーレン草も一束十仙になったりします。このような面で、消費のしかたがまずい、最後生産のやり方もうまくいっていない。お金や、物に対してそれそうとうの価値を生かした、くらし方が出来ていないという面があります。このようなことを十年もつづけたとしたら、大きなロスになりましよう。ぎやくに非常に上手に、いったん手に入れたものはフルに生かしてつかい、生活を豊にしつづけている方もあります。アメリカの主婦達の間では、「一ドルどの位い長くのびただろうか」ということが、主婦のうでまえのためしことばとして使われています。これは一ドルでどの位上手で有効な買いものをしたか、ということです。このようなことは決して、小さなことなどはいっていられません。いくら収入があってもそれをザルに水を入れるように使っていたのではきりがありません。収入のわりにあった生活をしているかどうか、つまりかけただけのおカネにあったくらしかたをしているかどうかが問題なのです。その判定はなかなかむつかしいことです。しかし、二年使えるものをとり扱いかたが悪かったため、一年でだめにしてしまうとか、ちよつとなおせば使えるものをほうり出しておくとか、手入れが悪くて、しみを出してしまうとか、虫にくわれるとかいうようなことはいくらでも身近にあります。
つまり、買いもの上手であること、物を大切に扱うこと、科学的に扱うことを知っているかどうかなどが、収入のわりにあった生活をするかしないか、のきめてであって、それが、毎日のくらしかたをよいものにも不満足なものにもするのです。毎日のくらしかたの役わりとして、これも又大切なことであると思います。

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