サロン 祝「としよりの日」
知花広三
(一)琉歌二首
△六、七十なんても 年よでど知ゆる いきやしなが肝(チム) やいつもわらべ。
「年寄りになって見なければ年寄りの気持ちはわからないが、実際に六、七十になって見るとなるほど年の数は老人だが心はいつまでも若者と同じということがわかる。それで年のことは考えないで、いつも若々しい気持ちで働くことが結局自分のためにもなれば他に迷惑をかけずにすむであろう。」
△走川(ハイカワ)のごとに 年波やたちゆい くり戻(ムド)ち見ぼしや 花の昔。
「昔から幾千万の人々がこのなげきをくり返したであろう。自分ではまだ若いつもりでいる中に、いつの間にか白頭翁やシワクチャ婆になっているああ年はとりたくないものだ。夢よもう一度とかなえられないことを願望するであろう。」
二、三回口ずさむと、昔の人は名にと意味深(イミシン)なよい歌を残してくれたものかと思います。
(二)ドチミシレー
子供の日、母の日、父の日、年寄りの日、めまぐるしい日々のいとなみのために忘れがちである子や親を年寄りを、日をきめて思い返し行事することもよい事だと思います。
年寄りが過去の尊い体験を次代の人々に語りきかせる場面は、ほほえましい風情があります。長い生涯中の取っておきの自慢話も面白いと思います。だが馬鹿の一つおぼえみたいに同じ話を同じ聴き手に、まんべんなくくり返されてはきき手がたまらない。若者たちは時間がおしい。モーロクしないようにしかけたいものです。
「クソヂヂー、ドチミシレー」と若者たちに悪態をつかれぬよう年寄りは年寄りらしくありたいものです。
「おうた子に教えられて浅瀬をわたる」といいますが何をおうた子に教えられるかを考えてみたいのです。
「ムチ習(ナレー)果(ハ)ティティンディチェーネーラン。」という事ですから花の風車(カヂマヤ)を目標にして未頼母しい若者たちに「ドチミシレー」と言われないようにつとめたいものです。
(三)キケン信号血圧二〇〇
老人健康診断で血圧二百と診断されて、その場でぶっ倒れてとうとう二度と立てなかったという話があります。血圧二百は、高すぎるかも知れませんが、あまりびっくりしすぎることはないと思います。十度や二十度、時には三十度も上がったり下ったりするとの事ですから心配しすぎないようにと申し上げたいのです。「生きておればヒズルクンスーものめる」という昔言葉もあります。時にはつつましく、時にはたくましく、時には大胆に生きて行くことを考え、いつも心静かにありたいものだと念願致します。末筆ながら老連の皆々様の御健康を心から祝福申しあげます。ハーニニー