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1970年1月発行 読谷村だより / 2頁

八重山移住地の台風災害見舞について

八重山移住地の台風災害見舞について 村長 池原昌徳
 去る九月二十六日早朝から長時間にわたって、宮古八重山を襲った台風十一号、エルシーは、八重山において最大風速五六、九メートルの猛威をふるい、二〇年ぶりの暴風に見舞われたという。そのために建物や農作物に大きな被害を与え、特に裏石垣の被害は大きく、「気力失った移住地!!被害大きくただぼう然」という見出しで本村から移住した米原部落の上地武三さんの住家が吹っ飛ばされ、途方にくれた模様が九月二十九日の新聞に歩道されていましたが、その後のマスコミも毎日のように八重山の被害状況を大きく取扱っていました。また琉球政府も直ちに災害対策本部を設け、災害救助法を適用すると報じられ、立法院も台風災害救援対策のために臨時議会が開かれたのでありますが、われわれの村でも、波平と楚辺の両部落では早速救援金を募金して代表者の八重山派遣を決定していたのであります。
私も、十数年前に本村から移住した八重山の、米原、栄、明石部落の皆さんが、こんどの台風災害により路頭に迷っているというニュースを聞いて、何んとか救助の手をうつべきである。一日も早く立上がるよう激励しなければ、と考えましたので、十月二十四日から二十六日までの日程により村長、議会議長、総務財政委員長、建設委員長、そして波平と楚辺の区長さんが参加して八重山移住地の台風お見舞いを行ったのであります。
 さて、八重山における台風の被害状況については全体的に見て、恒久建築の被害は僅かですが、茅茸、トタン茸の建物の場合はその殆んどが全壊か半壊かの被害を受けており、また街路樹、防潮林、森林などの倒木や、枯損木はたいへんなもので、台風のツメ跡は実にいたいたしく特に潮害がひどいので、八重山の基幹作物である甘蔗とパインの被害は甚大にして、移住地の皆さんは大きなショックを受けています。
 現在、本村から八重山に開拓移民として現住している方々は、米原部落が二十四戸、栄部落が十一戸、明石部落が十四戸の計四十九戸でありますが、そのうち住家の被害状況では、米原部落で全壊八戸、半壊二戸で最も多く、栄部落と明石部落は全半壊者がそれぞれ三、四戸であり、そして茅茸かトタン茸であった畜舎納家の如きは、そのほとんどが全壊でありました。ちようど私たちが訪問したときは、台風後一ヶ月目のところでありましたが、そのときやっとこわれた住家の改修工事を了えたばかりで畜舎の復旧は、これからとりかかるところでありました。
 このたびの八重山旅行で感じましたことは、住家や畜舎などに、草茸が多いのと、家をたたんで沖繩本島に引揚げた者、若者がつぎつぎと街に出てしまうことなどが目にとまりました。やはりこの傾向は近年急激に進歩する社会経済の変化による過密、過疎化の現象によるものであろうか。収入があがらず何時まで立ってもよい生活ができず、この土地ではどうにも喰っていけないから捨て去るのであろうか。とにかくいろいろの問題があると思うが、とりわけ政府の移住地対策農業及び避地政策など抜本的な打開策を痛感いたしました。二泊二日の短かい日程のため、くわしく調べることはできなかったが、移住地の皆さん方は、少ないほうが二町五反、多い人は五町歩以上の大地主もおりまして、トラックター、耕耘機などの機械化農業もかなりふえており、どの移住地も立派に耕作されていました
 いよいよ沖繩の本土復帰も確かなものとして、近よってきましたがその場合、沖繩本島より八重山のほうがすべての面において有利な条件にあると思いますので、自信と希望をもって復帰体勢づくりに邁進していただきたいと思います。
 米原、栄、明石の皆さんには、台風復旧作業のとても忙しいときに、心からの歓待を受け、誠に有難うございました。皆様の御健康と御繁栄を心から祈念申し上げて、八重山旅行の御報告を終ります。

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