読谷村史編集室 読谷村の出来事を調べる、読谷村広報データベース

1971年2月発行 広報よみたん / 2頁

自分に真実でありたい 責任を感じる  二十才に思う

一月一五日は成人の日、名実共に、社会人としてスタートする日です。今年成人をむかえる人には社会人としての権利が与えられますが、それは社会人としての責任も負うということをも意味します。そこで、はれて大人の仲間入りした方に、その決意、抱負などを語ってもらうことにいたしました。

自分に真実でありたい 福地 和子
 何気なく日々が過ぎ、いつの間にか時が流れて、私も二十歳になった。しかしこの年までいったい何をしてきたのだろう。二十年という月日をめくってみても何もない。やり直そうかと言ってみたところで「はたちの船」はすでにこぎ出されたのである。今はもう前進あるのみ。朝陽が大海原に輝いている。後は向くまい。「さて、これから何処へ向かおうか・・・・・・。いや急ぐことはない。これからは気の向くままなんだから」そう思って深呼吸する私の肩を誰かがたたいた。忘れていた。船には「責任」というお客が乗っていることを・・・。彼は聞いた。-どう?成人になった気持は。-私はとまどってしまった。「さあ、何と言ったらいいのか。そう、例ば、いつしか冬が去って、知らぬ間に春が訪ずれていた。そんな感じ。」-大人って何だろう?どんな大人になりたい?-「大人。それは私がこれから追求していくもの。築きあげていくもの。」
 これからの航路に何が待ち受けているか分らない。それだからこそ、進むのである。他人が皆そうしているから、同じようにして生きよう。そうではない。自分が生きようと望むままに自分に真実に生きたい。

責任を感じる 奥原 悦子
 「成人を迎えての感想は」と、よく問われるけれども私の場合、成人を迎えたことが、まだ実感としてわきません。その実感もときがたつにつれ、わくのであろう。だから成人を迎えたからといって、未成年であった私が、いろいろな面においてすぐさま変わることはないと思う。成人に達すれば、ある面で自由になり、ある面において法に縛られる。でも、全体的に見た場合「自由」ということが多い。「自由」ということの本来の意味は、「思いのままに行動する」ことではあるけれども、その自由ということを他方から考えた場合、そこには、「責任」というものを伴っていることに気づく。「自由」の本来の意味が「思いのままに行動する」ことだからといってこの「責任」ということを忘れてはいけないと思います。だから、私は成人に達したからには良き社会人となるためその「責任」という言葉を念頭におき、また世間ずれした現代の大人の人達のもっていない「なにものにも染まらぬ純真な心」というものを失うことなく、幾多の試練がまっているであろう私の人生を、自分の心に偽ることなく自分自身をしっかりみつめ一歩一歩ふみしめながら、自分の目標に向かって、まっすぐ進んでいきたい。

二十才に思う 知花 キヨ
 二十歳を迎えて新たな希望と闘志にもえている今日です。過去を顧みればあまりにも無責任な態度でいた自分を責めざるをえない。
 私たちの前途には数多くの矛盾した問題がある。祖国復帰、日米安保条約、基地公害、自衛隊の沖縄配備全軍労の解雇問題、毒ガスどれをあげてみても早急に解決しなければならない問題ばかりで、それらをいかに解決していくかは私たち青年にあたえられた任務ではないでしょうか。ひとりひとりの力は小さくても多くの青年の力を結集すればどんな困難なことでも成し遂げることができると思います。私たちはいまいちどこの矛盾した現実をしっかりとみつめ、それから逃げることなく真剣に自分の問題として考えなければならないと思う。私たち青年は社会を前進させているエンジンです。いつまでも受け身の姿勢だけではいけないし、もっと若々しく勇気をもって幾多の困難な問題も克服できるような青年でなければいけない。そして力強い青年の団結で、限りない情熱で社会の矛盾をなくし、平和な社会をきづきあげるよう努力したいものである。

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