読谷村史編集室 読谷村の出来事を調べる、読谷村広報データベース

1972年4月発行 広報よみたん / 4頁

さざなみ ヨミタンは毛遊びの元祖 与那原朝英

さざなみ
ヨミタンは毛遊びの元祖 与那原朝英
 ”多幸山-ヘーレーどころ喜名番所に泊まらなやー”と歌の文句にもあるように、その昔ヤンバル旅は、多幸山が難所であったらしい。
 ところが、時代は変わってアメリカ世になったので、(といっても来る五月十五日にはヤマト世になるが)こんどは逆に反対側の方向がコワイ地点になっているというのは、ヤンバル街道を南に走っていると多幸山あたりまでは割りと純粋な沖縄のにおいがする。
が、勾配坂を登り喜名部落にさしかかるとカデナ基地がわがもの顔にふんぞりかえり急に騒音が耳をつく。車の交錯もはげしく神経はピンと張り、空からトレーラーなどは降ってこないか、と気になる。
 戦前はのどかな純農村で平和そのものであった読谷山であったが、いまはどうだろう!
村の八〇%は軍用地になり、爆音、外人犯罪などの基地公害になやまされ「上イ口説」で有名な残波岬もデイトもできないオフ、リミッツの射撃場と化し、戦前のユンタンザ(読谷山)を知るものには、まるっきり変貌している姿に心をいためる。いつのことだろう!あの耳をつんざく爆音も消え外人にもおびやかされないで、若者たちは、ゆるイとラブ、ロマンのハナをさかせる平和なユンタンザになる日は・・・・・・。
 さて、落下傘の降下演習などで踏み荒らされている読谷の野山も古き良き時代には、ユンタンザニーセー達や、アングワ(乙女)たちが円陣をつくって三味をかきならせて、チュイナー舞-ラセーして遊び、歌や踊りにあそびつかれたあとは幾組かのカップルにわかれ比謝川のほとりや長浜の”サングワチ毛”あたりで恋を語らい愛を誓いあったものであろう。
モーアシビーといえば民謡の”越来ーヨー”に歌われている越来間切や”太田ハンダ毛遊び、歌すしや田佐原チル小、三味線や小やたしかようがイウサ小、なんて歌われている具志川あたりが、そのメッカだったとも思えるが、それより以前にユンタンザのほうが、その草分けであったような気がする。
その理由は――。
「歌と三味線の昔はじまりや、犬子ねあがりの神のみ作」という古歌がある。歌意は説明の必要もなかろうが、この赤犬子は読谷山楚辺の人であったらしく、楚辺部落ではいまでも毎年、九月二〇日には赤犬子の祭りがおこなわれている。
それに、読谷の有名な花織手巾は美乙女たちの肩や髪にかける装飾用としてもちいられるもので、色も赤、黄、緑と文字どうおり色とりどりのキレイなもの。それは乙女たちのアクセサリーであったが、恋しい、愛しい、彼氏におくったりした、言うなればユンタンザ乙女の情熱をおりこんで作った花染の手巾で愛の絆を結ぶロマンの糸であった。いま郷土民謡界で大活躍の歌い手、山内昌徳御大をはじめ津波恒徳、松田永忠、当山達子さんなども揃って読谷の出身赤犬子の時代からいままで読谷は歌の島、三味の島といったところ歌と三味線の昔はじまり――花織の手巾――民謡どころ、これだけの歴史と実証を考察すると越来、美里や具志川あたりより、やはり読谷が毛遊びの先輩というか、元祖であったように思われる。
屋良主席のお父さんや古堅村長のお娑さんなどもひょっとしたら毛アシビーカシラであったかもしれない。

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