第19回沖縄タイムス賞「自治賞」に輝く読谷村の概要(その3)
政治・行政
戦後の読谷村の行政は、米軍基地との対決で終始した。村民の郷里への移動は昭和二十二年で一応完了したが、その後極東情勢の変化に伴って、いちど開放された土地が再び接収されて移転させられるケースが度重なった。それに農耕地のほとんどを基地に接収された農村は、完全に生活手段を失ってしまったわけで、軍用地の開放は他村よりも切実な要求であった。この要求に対して、米軍は基地内での黙認耕作を認めざるを得なかったが、収穫期を前に黙認耕作が取り消されることもあって、きわめて不安だった。
その上、残波岬のボーロー・ポイントにはミサイル、座喜味城跡にナイキ、城下にホークが配備され、山岳地帯には核を含む弾薬庫が置かれるなど、村民はたえず生命の危機を感じて生活した。そのため、基地撤去要求の運動が燃え上がり、村行政もこれに対応することで明け暮れた。
その中で村は、新しい村つくりを模索、結局限られた土地を活用した「厚生文化村」の建設をめざすことになった。
復帰前の昭和四十六年、村単位としては沖縄ではじめての「経済開発基本構想」を策定、四十八年には「読谷飛行場跡地利用計画」「残波リゾートゾーン開発計画-ボーローポイント軍用地転用計画」を策定して新しい村づくりに着手している。
これらの計画は、農業を主体にし、これと美しい海岸線の自然景観を結合したリゾートゾーンの形成、座喜味城を中心に、伝統工芸、民俗文化、老人センター、野外公会堂などを網らした文化村の建設、軍雇用員の雇用の転換をはかった無公害、労働集約型企業の誘致と畜産、水産物の加工場の立地、せり市の設置などを構想している。
すでに、座喜味城跡を中心に、民俗資料館の建設をはじめ、伝統工芸である読谷山花織の工房、壷屋焼、花キ植物園のはりつけは完了している。五十一年度予算では、厚生省が計画している老人福祉センターの誘致で県と交渉している。
第二次産業部門では、これまでに縫製工場を誘致、常用六十人、パートを含め八十人の雇用効果を生み、村内企業として定着した。さらに、自動車の照明器具製作の大手工場の誘致を計画、用地の確保、道路の整備も終えているが、総需要抑制で立地がおくれている。同工場は、当初の雇用員二百人だが、将来は六百人の雇用効果があるとされる。
村議会の運営もきわめて民主的で、各議員はそれぞれ部落常会や部落内の活動団体の要求を吸い上げ、村政に反映させている。
また、議会は議事録を完備、会期終了後はこれを印刷にし、各部落や村内の各活動団体に配布し、議会活動の実績を村民に報告している。その実績は高く評価され、復帰前の昭和三十七年二月、全国町村議会議長会から沖縄で初の優良議会として表彰されている。
産業と経済
昭和十二年の県統計書によると、村の総面積の約六〇%にあたる千九百六十三haが農耕地で、農家一戸当たりの耕地面積は六十a。総人口の九四%が農業で扶養され、生産額も農業が約六七%を占めていた。畜産も盛んで、農家戸数二千九百二十戸のうち九八%が有蓄農家だった。 しかし、戦後は耕地の大部分を軍用地に接収されたため、農業経営による生計維持は困難となっている。昭和四十八年の地目別土地調査によると、農用地は五百四haで全体の一五%に落ちた。農家戸数も昭和四十年までは、全体の四三%を占めたが、現在は三二%になった。
産業別就業者数をみると軍雇用員んがもっとも多く二七・四%、ついで農林水産業の二三・三%、建設業の一四・二%、公務七・一%。卸売業七・三%の順で、基地への依存度が高い。基地は産業振興の大きな阻害要因ともなっており、村は転用計画を策定して、その開放を求めている。だが、復帰後開放になった渡具知一帯の軍用地は、地籍が確定せず、開放されて三ヵ年余も放置されるという現実もあり、その解決が村政の課題である。
結局村としては、那覇圏内の北部に位置する地理的条件を生かした、農畜産物海産物などの生鮮食料品の供給基地として、第一次産業を中心とした産業構造の維持に力を入れていく方針。
そのため、昭和四十九年に、農振地域の指定をしてもらうとともに、比謝川、長田川、長浜川の水と楚辺一帯の地下水を利用したかんがい用ダムの建設計画を進めている。水産面では、都屋の漁港を整備、冷凍施設を完備、水揚げ量をふやしているが、将来は北部の伊江漁港などとタイアップせり市を開設する構想も立てている。
一方、伝統工芸としての読谷山花織も復興以来、次第に普及し、現在では百人に近い織り手も養成され、生産量は確実に伸びている。また、壷屋から誘致した金城次郎氏の陶芸も、村の産業として定着しつつある。