読谷村史編集室 読谷村の出来事を調べる、読谷村広報データベース

1978年11月発行 広報よみたん / 2頁

待望!村民の運動広場堂々開場 野球なら三面・ソフトボールは四面 体力づくりのメッカとして大いなる活用を

待望!村民の運動広場堂々開場 野球なら三面・ソフトボールは四面 体力づくりのメッカとして大いなる活用を
 さわやかな秋風そよぐ十月九日村民待望の運動広場が堂々オープンいたしました。
 この日の運動広場開きはカラリと晴れわたる秋一番の好日秋にめぐまれる中、同時に第三十一同村陸上競技大会も開催され開場記念にふさわしい一日となった。
 まず、午前九時陸上競技選手団役員の入場でもって運動広場開きの第一のステップを歩んだ。村旗を高々とかざし、土の香りも真新しいグラウンドを力強く、足音高く堂々と入場行進が展開された。そのあと、山内徳信村長、新垣秀吉村議会議長、安田慶造村体育脇会長(助役)が本部中央に設けられた紅白のテープにはさみを入れ、華々しく堂々と村民の「運動広場」は開場した。また、開場記念にふさわしく「走り始め」も行われ村三役はじめ村議会、村体協、老人会、青年会、婦人会、区長会の各代表が走り始めを行ない村民の広場として華々しく幕を開き、走り清められた。
 山内村長は開場式典にあたって「村民による村民のための運動公園づくりの第一歩がここに実現いたしました。
 私達読谷村民は、現在、軍用地である読谷飛行場の中に、村民が久しく待ち望んでいた運動広場を造ることができました。このことは、村民共通の願いであり、夢であった運動広場が、ついに、この地に実現した。この場所は、二年前アメリカ軍がアンテナ基地を作ろうとした時に「所有権の回復がおくれる。土地の利用計画ができなくなる。基地の拡大強化を認めない。」という三点で地主会を中心に村民が激しく闘った第二闘争現場であります。『読谷村民の夢や願いをつぶすな』という正しい要求は、日本政府やアメリカ軍とのたび重なる交渉、村民の団結した闘いの結果、今、こうして運動広場が実現したわけであります。この感激、この喜びを村民共通の喜びとして分ち合い、今後、この運動広場を中心にして村民のスポーツ発展のメッカとして、さらに発展することを願うものです。
 運動広場がこうして出来るまでに、村民はじめ、大勢の方々の誠意と御協力御支援をいただき、また、関係者の並々ならぬ御苦労に対し、深甚なる敬意と感謝を申し上げます」。と力強く挨拶を語られていた。
 競技が進むにつれ村民の広場には続々と観衆がつめかけた。それぞれの観衆は運動広場の余りの広さに只ビックリ。「話しには聞いていたがまさかこんなバカデッカイ広場とは想像もしてなかった」。と語る者や「只感激するのみ。村民の憩いの広場として広く利用させてほしい」と諸手をあげて喜び勇む者。また、グラウンドを走った選手は「四〇〇メートルコースで走るのは始めてです。余りの広さに走っても走ってもゴールに届かず、とまどった。順位は別として感激した。」と語り、村民の期待を一身に担った運動広場は全村民から大きな期待が寄せられています。
 尚、この運動広場は陸上、野球、ソフトボールなど各種のスポーツ、集会に使用できる多目的広場として造成されています。
 広場は元読谷国民学校周辺の約一万二千坪です。その面積は読谷小学校グラウンドの約三倍、野球では三面、ソフトボールになれば優に四面は取れるという文字通りのデッカイ多目的広場です。
 運動広場の建設場所は現在軍用地となっているので、日米施設委員会に対して共同使用の手続を経て、その許可に基づいて広場は造成されています。
 また、この一帯は現在、国を相手どって旧地主への所有権回復を目指して強力に取り組んでいる最前線地帯でもあります。広場の造成については読谷飛行場所有権回復地主会の御協力と御理解により「村民の憩いの広場」として造成されたものです。
 (写真)村民待望の運動広場開き、紅白のテープにはさみを入れる新垣村議会議長、山内村長安田村体協会長。

※写真は原本参照

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