読谷村史編集室 読谷村の出来事を調べる、読谷村広報データベース

1978年11月発行 広報よみたん / 2頁

読谷村運動広場建設までの経過

読谷村運動広場建設までの経過
 昭和50年2月4日、読谷村運動公園早期建設の陳情が読谷村運動公園早期建設推進委員会から村および村議会に提出され、議会においてはその陳情書を採択しました。
村においては、役場内の運動公園建設委員会を設け検討するとともに、「読谷村運動公園をつくる会」を発足させ具体的な取り組みについて話し合いを進めてきました。
 当初は運動公園を作るものとして進めてきたが、最終的な場所が旧読谷国民学校の跡地附近と決定し、またその用地が軍用地であることと用地の所有権回復を訴えている土地であることから、運動広場として位置づけして進めることになった。
 昭和52年10月9日、読谷村体育協会創立30周年記念陸上競技大会において「読谷村総合グラウンド新設に関する要請」が、村長、議会議長、教育長あてになされ、広場の建設は急務として取り組まれるようになった。
 運動広場の設置場所は旧日本軍(陸軍)が強制接収した土地であり、現在、読谷飛行場用地所有権回復地主会が、国と返還交渉を進めているところであることから地主会の全面的な協力を得なければならないものである。さらに軍用地内でもありその使用手続き上日米共同使用の申請によらなければならず、又現在国有地取扱いされており、沖縄総合事務局、防衛施設庁、那覇防衛施設局、現地米軍との調整、交渉を重ね、日米合同委員会において合意され、許可になった。
 運動広場の建設は全村民が待ち望んでいた施設だけに、どうしても今回の陸上競技大会に間に合う様に建設したい旨、関係者に協力を要請しましたところ地主会をはじめ地域の方々、関係機関等の御理解と御協力のもとに同広場の一期工事がある程度完成し、今回の陸上競技大会が開催される運びとなったものである。
 工事は昭和54年度も継続して行う計画であり、完成後の総面積は35,000㎡の大きな広場で村民が利用できる多目的広場となります。

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