読谷村史編集室 読谷村の出来事を調べる、読谷村広報データベース

1978年12月発行 広報よみたん / 5頁

読谷山万事始 №12““吹奏楽器のこと”” 渡久山朝章

読谷山万事始 No.12 ”吹奏楽器のこと” 渡久山朝章
 吹奏楽器はラッパの種類の金管楽器と笛の仲間の木管楽器に分けられる。金管楽器にはトランペットやトロンボーン等があり、木管楽器はフルートやクラリネットのように多数の鍵がついたものが多い。いずれにしてもこの様な楽器は戦前の田舎ではなじみがうすかったが、昭和八~九年頃であっただろう
か、宇江城サーカスが楽隊を連れて比謝矼で興行したことがあった。そのジンタが三拍子の曲を奏するブシチャというリズムが珍しく、私たちは面白がってチンラッターフエーブーブーと唱えたものだ。
 わが村の人で最初にクラリネットを奏した人は伊波平太郎氏(伊良皆)であった。スピーカーの無い時代、読谷山小学校の運動会で、ダンスの伴奏や行進曲は伊波氏の独奏で十分に効果を上げたものである。伊波氏はこの他バイオリンも得意としたらしく、よって当時の村民の間では平太郎ではなく楽太郎の名で親しまれたという。大正十三~四年頃からクラリネットを手にしたというから、伊波氏は当時としては余程モダンボーイだったかも知れない。モダンと言えば同氏は終戦直後、石川で飛行機の残骸を溶かして作ったジュラルミン鋳物の瓦で屋根を葺いたこともあったらしい。
 こうして戦前では伊波氏が只一の吹奏楽器奏者であったわけだが、この他に吹奏楽器の仲間として軍隊用の信号ラッパがあった。この信号ラッパは戦時色濃厚になって行く昭和十五~六年頃から青年学校(各小学校に置かれた)の軍事教練用としてとり入れられた。このラッパにはバルブが付いて居ないことから音階は吹けないけれども、倍音奏法でトテチテタと国民の戦意昂揚に利用された。
 さて、本村戦後の吹奏楽は筆者が始めた。沖縄戦直前、私は師範学校のブラスバンド部員だったが、敗戦直後はラッパの事など全く念頭になかった。ところが昭和二十五年の春、楚辺のQM部隊に資材を貰いに行った佐久川寛勇さん(喜名、現在アルゼンチン)がトランペットを一本手に入れて来た。これを吹奏して見せると当時の読谷中学校の校長大湾梅成先生(渡具知)が「読中にバンド部を作るように」と言われた。こうして発足した読中バンド部は早くも昭和二十七年の第一回全沖縄学校音楽発表会(会場琉大本館)にコザ地区代表として出場した。当時の沖縄のブラスバンドは高校に四校位と、中学校では首里中、具志川中と読谷中の三校にしがなかった。そして読中ブラスバンド部の黄金時代には四十五名の大編成となり、全琉コンテストでは度々上位入賞したものである。
 昭和三十七年、筆者が古堅中学校へ転任と同時にバンド部を結成、翌、昭和三十八年のNHK沖縄地方音楽コンクールでは器楽の部で古中バンド部は優秀校の表彰を受けた。

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