読谷山万事始 No.13 ”医療の巻” 都屋382 渡久山朝章
わが村での医療事始めは何時頃であっただろうか?それは医療それ自体の形態の変遷もあったことから、明確には何事からとは言えない。つまり医療とは広辞林にもある通り、それは「病気を治療すること」であり、そのことは原初においてはウグヮン、ウガミ、マブヤーこめの類も加えた祈祷や呪術をも含むのではないかと思えるからである。
これがやがてはブーブー(混血)や草木の類をかじる民間療法となり、更に漢方薬、鍼灸へと進んだものと思われる。
このように広範囲にわたるとその事始めの儀は全くつかみ所を失う。よってここでは西洋医療について述べたい。
沖縄における西洋医療の始めは一八三七年尚育王代で、アメリカのモリソン号という船が泊港に入港し、その時にキリスト教伝道医のパーカーという人が牛痘種法を伝援したことに始まるといわれている。
明治二十二年になると沖縄で初めて医生教習所が出来、十二名の教習生が入学したといわれるが、その中に平良真順先生や仲吉朝端先生も入っていたといわれる。この両先生は後にわが村の村医となった。
さて、わが村での初代村医は大宜味出身の平良真順先生で、それは明治三十七年頃であった。二代目は首里出身の照屋孚詮先生、三代目も首里出身の仲吉先生と続く。四代目からは始めて村出身で波平の大城亀助先生、そして大正八年には喜瀬真正先生が比謝矼で開業され沖縄戦に至る。(読谷村誌より)
戦後は昭和二十二年三月、疎開先から帰村した村民の保健医療を担当する為に読谷村診療所が創設され、喜世川浩医官(嘉手納)知花英夫歯科医官(波平)が任命され、野村富(旧姓安次嶺)、知念トキ(旧姓儀間)、福地貴美(旧姓嵩元)さんたちの看護婦が配置され医療活動が開始された。
降って昭和二十四年三月、疎開地の宜野座村漢那診療所から喜瀬真正先生が帰村され楚辺診療所が開かれることになる。読谷診療所はその後も高志保アカムヤーで続けられたが、喜世川医師の嘉手納への転出にともない、比屋根良明氏(首里)が着任、昭和二十六年七月の医師の個人開業制度まで続いた。
個人開業制度以後は喜瀬医師のひとり舞台となる。先生は齢九十歳を越されるまで村民医療の為に活躍された。そして先生没後は本村に長期間無医状態が続くことになる。
この長い無医状態に終止符を打ったのが読谷村診療所の開所である。この診療所は字都屋の旧米軍高射砲部隊跡に建てられた鉄筋コンクリート造りのモダンなもので、昭和五三年五月二五日、女医で医学博士蕪木多津を先生をお迎えして開所したものである。先生は元総理府診療所に勤務され、その間佐藤、田中、三木の三代の総理を始め総理府職員の診療と健康管理に当られた方である。