読谷山の文化財 №3 読谷山花織
読谷山花織は十五世紀初めの頃、読谷村長浜に伝来したといわれる。それは南方貿易が盛んな頃で、花織の特異な意匠からみて、インドを含めた南方から渡来したのではないかと思われる。
読谷山花織は琉球王朝の御用布に指定され、読谷の人々以外の一般庶民には着用は許されなかったようである。
読谷では男物はエイサーや村芝居等に使う「打ち掛け」や、「ドゥーブク(筒袖の短衣)」筒袖の短衣)」として用い、女物は「綿衣(袷の着物)」で裏地には紅型の小付模様が使用され、娘の嫁入りに母親が織ってあげたものといわれている。他にミンサー(細帯)や手巾があり、手巾は「ウミナイティサージ」ともよばれ乙女たちが旅立ちのお守りとして親、兄弟に贈り、また胸に秘めた思いの火を一枚の布にたくして恋する男に織ってあげたという。
読谷山花織の技法としては紋綜絖(花綜絖)によるタテ又はヨコの浮織、縫取織、絣などを併用している。地糸は木綿、絹、染料は幅木、藍、ティカチ等が使われている。
先租伝来の交易文化が生んだ美しい幾何文様の読谷山花織も明治中期頃までは織られていたがその後絶えてしまった。いったん忘れられた花織の技術を受け継ぎ、村の伝統工芸品にするため、昭和三六年頃から村の高齢者の見聞きをたよりに復興事業に着手し昭和三九年、花織の技術復元をみたのである。
昭和五〇年三月二六日与那嶺貞さんが県の無形文化財技能保侍者の指定をうけ、昭和五〇年九月「読谷山花織事業協同組合が設立され、昭和五一年四月二六日通産大臣指定伝統工芸品とこのように今日までの成長ぶりは驚くほどである。現在、波平、高志保、楚辺、座喜味、宇座等で村内の婦人が生産活動に従事している。
(写真)県指定無形文化財技能保持者の与那嶺貞さん
※写真は原本参照