読谷村史編集室 読谷村の出来事を調べる、読谷村広報データベース

1979年3月発行 広報よみたん / 8頁

読谷山万事始 №14““村の歌について””渡久山朝章

読谷山万事始 №14““村の歌について””渡久山朝章
 わが村に関する歌は、古くからオモロを始め琉歌にも多く見られる。誠にとよむよんたもざと言われるゆえんだがここでは村民自らが歌い親しんで来た、おらが村の歌について考えて見よう。
 私が幼い頃聞いた歌の一つに読谷山口説がある。大部分は記憶から失せてしまったがそのごく一部を示すと次の通りだと思う。(御存知の方どなたか御教示下さい)
 村ヌマギサや楚辺、波平
 村ヌグナサや上地村
 番所前ナチョル喜名村
この歌が上り口説の節回しで歌われたことから、これは察するに上り口説が歌われるようになった後の作であろう。
 さて、次が戦前板付歌である。この歌は今ではもう御年輩の方々の記憶の底にしか残ってないかも知れない。その方々の郷愁を呼び起す為にも次に記して見たい。
一、中頭郡の北の方国頭郡に隣せる。
 二方里余る我が村は甘蔗に名を得し所なり
二、東は矢倉の嶺高く 西は残波の水深し
 中に包まる字々は護佐丸城を仰ぎつつ
三、座喜味、親志や喜名、長田、伊良皆、牧原、比謝、大湾、渡具知比謝矼、古堅や大木、楚辺や都屋、上地
四、波平、高志保、儀間、渡慶次、宇座や瀬名波や長浜と二万近くの同胞は日々磨く自治の玉
五、中を貫く県道とそれより分る村道は
 縦横左右に連りて行き来のたより類なし
六、学びの道も開け行き智徳も進む大御代に
 学ぶ児童は二千人補習教導くまもなく
(五、六番は山内春先生(大湾)に教えていただいた。記して感謝申し上げます)
 この歌詞は大正末期、読谷山小学校長の管野喜久次先生の作といわれ、その後新しい字の誕生と児童数の変動によって一部改作されている。少々古めかしい感じもするが、どうだろう、この歌を暗記すれば読谷に関する社会科の成績は優秀だと思うのだが…。
 管野校長は当時の木村学童の学力低下を憂い、村当局とはかり、各学校教頭を学事調査委員に任命し各字別の児童の学力・出席を調査させ、春秋の原山勝負で学事成績優秀部落に優勝旗を授与する等々具体的な方法で本村学校教育振興に尽くした功は大変大きかったという。
 次に昭和五一年十一月二八日現村歌が制定された。これは広く公募したため県内は勿論、他県からも多数の作品が寄せられた。この時、私の作品が人選の栄に浴したのである。村民各位が広く御愛唱いただければ作者としてこれ以上の喜びはない。

利用者アンケート サイト継続のために、利用者のご意見を募集しています。