読谷山万事始 No.15 ”小学校の巻” 渡久山朝章
琉球王朝時代の末期及び旧藩時代にはわが村にも数ヶ所、村学校というのがあったということである。但しこれは学校というより私塾的なもので、首里・那覇からの寄留人の中で学問のある人が師匠となり、村屋(字事務所)等で読、書、算を教えていたといわれる。これらの師匠は、例えば、座喜味は真栄城、波平は島袋、渡慶次は饒平名、伊良皆は佐久本、楚辺は富里の各氏が当っていたという。一方生とは七歳から十五歳位までの男子で、比較的生活に余裕のある家から選出し、幾らかの抹持米を与えて入学せしめ、卒業後は政治見習のため首里のお殿、殿内に奉公に上らせたり、或はただちに間切番所の文子(ティクグ)等に採用したと言われている。(「村の歩」より)
さて、わが村での本格的な小学校が設置されたのは明治十五年(一八八二年)である。当初は喜名番所内の一角で始められ読谷山小学校と呼ばれた。新制度の学校であり、その上教育についての理解も不十分で、子弟の就学免除嘆願も多かったようである。従って就学奨励のため”入学者に麦二、三俵を給付”と喜名小学校沿革史に見えている。これら入学者は十六、七歳の男子だけであったが、四年遅れて明治十九年(一八八六年)に至り始めて女子も入学したようだ。
明治二十八年に設置されていた渡慶次分校と古堅分校は、明治三十五年に至り独立校となり、こうして昭和二十年(一九四五年)の沖縄戦に突入するまで本村の小学校は読谷山・渡慶次・古堅の三校であった。
戦後は、昭和二十一年(一九四六年)十二月二十日から学校が再開された。戦争で各地に避難していた村民が再び村への移動が許可された同年十二月一日より十九日目にして早くも学校は始められたのである。その頃田井等高等学校教官であった大湾梅成先生(渡具知)が校長として赴任され、学校名も読谷初等学校という八年制の学校であった。開校式は現役場敷地で行われたが、やがて字波平の東側(現読谷中学校敷地)で本格的な学校作りが始められたのである。その頃村民の居住は米軍によって波平、高志保に制限されていた関係上、高志保赤ムヤーには分校が置かれた。
昭和二十二年四月に至り赤ムヤー分校は渡慶次初等学校となり、同じ月に楚辺、大木に移動していた南部の村民の子弟のために古堅初等学校が開校した。すこし遅れ同年十二月には喜名、座喜味東川原の開校に伴い喜名、座喜味、親志、伊良皆が移動し、喜名初等学校の設立が認可された。その頃は各校とも米軍払い下げのテント教室ではあったが、学校の数の上では戦前を上回った。一九五二年四月一日初等学校は小学校と改称され、その後変遷発展を続け今日に至ったのである。