読谷の文化財 No.7 赤犬子
赤犬子宮は、楚辺赤犬子原にあり、今からおよそ四〇〇年前琉球音楽の始祖赤犬子終焉の地である。赤犬子は読谷山間切楚辺村が生んだ偉大な吟遊詩人であったといわれ、三味線をつまびきながら、あの村、この村と行脚しながら、村々の出来事を歌に託し聞かせることによって村人たちは、その土地の事情をも知ることが出来たといわれている。
ある時、行脚中、赤犬子はのどがかわいたので恩納村の瀬良垣の浜へさしかかった時
舟大工たちに、水を飲ませてほしい、といったところ、すべなく断わられ、瀬良垣水舟といって立ち去った。又、民謡”谷茶前”で有名な谷茶海岸で同様に水を乞うたところ快く飲ませてくれたので”谷茶走り舟”といって感謝した。ところが後に瀬良垣の舟は難破し、谷茶の舟はめでたく航海したという。これを恨みに思った瀬良垣の舟大工たちは赤犬子を殺そうと捜しまわり、ついに楚辺ムラの現在赤犬子宮の祠の中にある岩屋に追いつめた。逃げ場を失なった赤犬子は杖を岩に立てて昇天してしまった。これが赤犬子終焉を物語る伝説だといわれている。鳥居をくぐって内陣中央に赤犬子を祭る祠があり、
“歌と三味線のむかしはじまりや 犬子ねあがりかみの美作
の歌碑がある。
この歌碑は、琉球音楽の始祖といわれた赤犬子を讃える歌であり、又
うざの楽しみや唄と三味線と楽しみにまかち長座するな
という教訓歌も伝わっている。
楚辺部落では昔から赤犬子を村の護り神として崇拝し、毎年旧暦九月二〇日に赤犬子祭りを行う慣例となっている。
※写真は原本参照