読谷村史編集室 読谷村の出来事を調べる、読谷村広報データベース

1979年8月発行 広報よみたん / 9頁

知花弘治氏の死を悼む山内繁茂(大湾)

知花弘治氏の死を悼む 山内繁茂(大湾)
 知花弘治氏の意志の強さ、正義感、人をそらさぬ魅力は、母からの遺伝と、厳しい躾によるものであり、何事にも積極的で、社会のために尽す使命感の強さは、彼の祖先に当る、野国総官の血統に由来する、天与の賜であろうと、彼の生立を調べている間に知りました。幼少の頃に父を失い、兄弟姉妹五名は母一人の手にゆだねられ「ウスンミヂン」(海水も清水も)飲んだ人で、貧乏の辛さをよく知っていて、頼りになるのは自分自身であると思い「貧をなげくはそれ気が弱い、腕とすねとがないじゃなし」と、常に口ずさみ、心身の鍛練に気をくばったようです。青年時代には相撲は村内の横綱であり、波の上宮例祭の全島相撲大会では三役格だったとのことです。
 昭和二二年十月の農業組合総会で組合長に選任されると、最初に精米所整備に着手し、次に家畜を殖すことに力を入れています、そのことは、戦前の彼の村技手時代の業績をたどって見ると、うなづけます。比謝橋の牛市場には年間五千頭内外の牛が、与論、永良部島等から移入され、読谷山村は牛の肥育地として、其の名をとどろかせ、農家二九二〇戸の内その九八%まで有畜農家数をふやすことが出来ました。廐肥の外に堆肥の増産に力を入れ、地力増進を図ったので、農家収入はふえ経済も豊かになってきました、その体験と、指導理念を生かすような計画だったのでしょう、他村に先駈けて、職員や組合員を伴なって大島や久米島に渡り、牛・豚・山羊を購入し、家畜の増殖を図りました。又農民の武器とも言うべき農具類の需要をみたす為に、農鍛治工場を補強し制作・修理を督励しています。それから物資の交流にはトラックが絶対に必要であるが、新車を購入することは困難な状況だったので、米軍の廃車を手に入れ、補強修理し使用しましたが、故障が続出して期待したほどには成果が挙がりませんでした。又戦後に建てた倉庫は、グロリヤ台風で倒壊し、在庫の尿素肥料が水浸しの被害を受けるなど、天は役に時を与えず、試練のみを与えて、その力を抑制する結果となりました。
 彼の事業計画や運営構想は、時世より数十歩も先に進んでいて、人々には理解が出来ず、ついて行くには骨が折れたと語る人もいます。その事は彼が口先の人ではなく、実践型の人だったことを、如実に物語っています。
 復興途上の村内には、処理すべき事が沢山あるが、先づ、経済復興こそ新生読谷の第一の課題である。それを軌道にのせ、成果を挙ることが自分の責務だと、家庭をかえり見る暇もなく、東奔西走する姿は、正に先覚者的風格であったと言えましょう。いつの時代でも偉人、指導者は、苦難の関を潜っていると、歴史は語っていますが、彼もその範疇(カテゴリー)に入る人かも知れません。彼の抱負を充分伸し、髀肉の嘆きを満すのは、満州の広野であり、南米の肥沃の天地が必要であったのでしょう。昭和十三年に、国策にそって満州開拓団を引連れて、慶城県華陽開拓地に入植し、新らしい村の建設に励み、他団より抜ん出て良い成績をあげ、前途に光明が約束されたので、団を離れ、ハルピン農産公舎の重職に就きました。一応安定したと思った途端に、祖国は敗戦し、営々と築いた業績は水の泡と消え、傷心の身で帰郷したことを、たいへん残念がっていました。
 昭和三四年に南米移民金庫事務局長を拝命し、数回にわたり現地を視察し、ボリビヤ、サンタローリの地を永住の場所と定め、七七才の老母と共に移住しました。在米二十年の努力で生活基盤も整ったので、今年中に帰省し、喜寿を迎えた喜びを、親戚知人と共にしたいとの通信のあった矢先、去る五月十五日に急逝されました。私は彼が健在であって、在村し、良いスタッフと共に、村の振興計画に参画したら、理想的村が早期に実現したであろうと思い残念でなりません。
 彼の死を悼み、冥福を祈って筆をおきます。

利用者アンケート サイト継続のために、利用者のご意見を募集しています。