二四ヘクタールに土の香り新たに 渡具知地区土地改良事業着手 ビニールハウス団地等を造成
渡具知土地改良組合(屋宜必良理事長・組合員一二二名)による「渡具知地区土地改良事業」第一期工事の起工式が去る四月二六日午前十時から事業施行現地において関係者多数が出席して開かれた。同事業は座喜味地区農村基盤総合整備事業に次ぐ本村での二番目の農業生産基盤の整備事業である。
同事業は旧渡具知部落の返還軍用跡地を中心とする三五・六ヘクタールの広大な面積において全体設計がなされている。その中で二四・一ヘクタールのほ場整備を中心に、一・五ヘクタールの畜産施設用地、それに将来計画における公共施設用地等を含む五ヘクタールを非農用地として確保するほか、海岸線には防潮林帯を植栽し、潮害から農作物を守ろうとする配慮がなされている。また、整備されたほ場の縦横に幅員六メートルの基幹農道(一部五m幅員)が網の目のように走り、農作業の省力化をはかるほ場整備が行れる。
渡具知地区における土地改良事業は県内における返還軍用跡地での初めて土地改良事業であり、返還軍用地跡利用計画に添ってのモデル的な渡具知地区土地改良事業は早くも各々関係者の中で注目されている。
渡具知地区土地改良事業の総事業費は一億九千三〇〇万円、昭和五七年度をもって事業完了予定になっている。同事業は計画当初、昭和五四年度を第一期事業着工年度にしていたが、政府の物価抑制策による公共事業費の五%繰り延べ閣議決定により、同事業もその影響を受けて一年間繰り延べされていた。
今回着工された同事業は実質には昭和五四年度分事業であり、ほ場整備を中心に九ヘクタール整備されることになっている。これらの事業費は四千三百五〇万円で山内組(山内昌秀代表)が請負九月三〇日事業完了予定で事業は進められている。また、昭和五五年度分の事業九・四ヘクタールのほ場整備については七月着工を予定し、今、役場・農地改良課を中心に最後の詰めの段階に入っている。
一方、経済課を中心にして進められている農業構造改善事業による近代化設備「渡具知野菜生産組合」には九戸の農家が参画し、約四千坪の一大ビニールハウス団地が造成される。同事業は土地改良事業第一期分の完了を持って同事業を導入し、早ければ今秋にも竣工し、野菜の生産態勢に入る予定である。また、一・五ヘクタールの畜産施設用地はこれからの養豚・畜牛の需要展望を見極める中で事業導入を計画している。
渡具知地区土地改良事業は返還軍用地跡における県内でははじめての土地改良事業であり、将来に悔いを残さない農業集落としての一大モデル事業として内外の注目の的になっている。
(写真)渡具知地区土地改良事業の起工式。この日は組合員(地主)をはじめ、村・県から関係者多数が参列し、工事安全の祈願を行った。同事業は昭和五七年度をもって終了し、広大に整備されたほ場は各々農家の生産意欲を駆り立てることになろう。
ふる里への再建つち音高く
☆……字渡具知は一九五四年、今から二六年前に米軍の無情な仕打ちにあい、強制的に立ちのきさせられ、身をもって屈辱感を味わってきた。その当時は、先の大戦の傷跡からやっと立ち直りの兆しを見せ生活基盤を取り戻しつつあった時だけに、当時の区民のショックは計り知れないものがあった。
旧渡具知は広大な土地に囲まれ、肥沃な土地柄、しかも良港渡具知港にめぐまれ半農半漁で村内でも割と裕福な生活を営んでいた。併せて海岸線の白い砂浜、そして泊城は戦前沖縄八景のひとつにも数えられ、渡具知の知名度は県下でも名高いものがあった。
悲惨な戦争、はじめての敗戦という屈辱感を味わう中で、米軍の占領意識は当時の区民に有無を言わせる時をも与えず、現在地(比謝地番)へと強制立ち退きという無情な仕打ちに合ってきた。
いのるふる里への郷愁はやがて「ふる里を取り戻そう運動」にまで発展し、やっと二〇年後の昭和四八年九月十日に夢にまでみたふる里が返還された。だが、以前の区画形質は無惨にも破壊しつくされ、軍用地という名の残忍さは目を覆う程であった。しかし、ふる里再建へと取り組む区民の情熱は以前に増して燃え盛り、トリー通信施設跡の転用計画に添って「渡具知集落整備事業計画」を進め、一三一戸分の宅地区分を造成、電気水道、道路の整備が進む中で今ではすでに三〇戸の元渡具知区民が安住の地「ふる里」に帰り落ちつきを見せはじめている。
渡具知地内における土地改良事業も区民の熱烈な農業意識への再燃を意味し、やがては整備された広大な耕地に囲まれた静かな農村集落としてのたたずまいが約束されている。
※写真は原本参照