約二ケ年の歳月をかけ、座喜味横田屋原一帯に造成を進めていた「やちむんの里」がついに完成、その歴史的な一瞬、初窯開きが去る七月一日午後六時に行われ、三〇〇年ぶりに喜名焼発祥の地、我が読谷村に再びやちむんの拠点が甦えった。
我が村のめざすムラづくりの将来像は「人間性豊かな環境・文化村」である。その未来像を実現して行くため「村民主体」「地域ぐるみ」「風土調和」の三つの原則をムラづくりの主柱とし、具体的的な施策を講じる中に日一日としてめざす将来像に向って進んでいる。
やちむんとしてのこれまでの経緯は昭和四七年十月那覇市から金城次郎氏が移り住み、登り窯での「読谷壷屋焼」は有名である。一方、氏は同年十一月に県無形文化財技能保持者であり、氏独特の絵付け紋様は内外から高く評価されている。
その中で「やちむんの里」計画は本村の総合計画基本構想を踏まえ「やちむん」「読谷山花織」が我が村を代表する伝統工芸品であり、しかもそれは沖縄の共有財産であるという認識から同計画は立案された。
やちむんの里づくりの第一陣には大嶺実清氏(那覇市)を代表に金城光明氏(嘉手納町)山田真萬氏(宜野湾市)玉元輝政氏(沖縄市)の窯元が沖縄のやちむんのあり方を求め、喜名焼発祥の地であり、読谷山花織の伝統工芸を復活させた歴史・文化さらにそれを支える村民性がやちむん復活に相応しい地のりであるとの観点から、心骨を埋める心意気で移転してきた。かくして昭和五三年七月、四名の陶工たちはやちむんの再興をめざし、やちむん創造の空間づくりが土と汗みどろになって進められ、約七千坪の山林が切り拓かれた。やちむんの里づくりへの槌音高い響きは四辺の樹海に歴史の甦りへの胎動を感じさせ力強く打ち鳴らされた。
あれから二年、やちむんの里づくりは四名の参画者陶工はじめ、
※写真「大嶺実清氏」、「金城明光氏」、「これが登り窯の焚き口だ!!」、「やちむんの里全景・左が登り窯で右の赤がわら屋根は各々の陶工場」、「初窯の焼きあがりは上々と満足顔に語る関係者」、「九連房の登り窯、戦前戦後を通し最大級のものである。」は原本参照