読谷村史編集室 読谷村の出来事を調べる、読谷村広報データベース

1981年5月発行 広報よみたん / 3頁

平和への願い 古堅小6年兼城千波

平和への願い 古堅小6年・兼城千波
 四月二十一日、私達は朝会のため、運動場に出ていた。もうすぐあいさつだというのにさわがしかった。みんなが上を向いているのに気がつき上を見たら、学校の上空を落下さんがふうわりういていた。私達のところへ落ちはしないかと、不安なところ、幼ち園の後ろ三百米のところにパラシュート三つが落ちた。一しゅんの危機だったが、もしあのパラシュートが私達のところへ落ちていたら、数十人ものけが人と何人かのとうとい命が失われていたかもしれない。
 パラシュート落下で、一九六五年喜名小学校四年生の棚原隆子ちゃんがパラシュートのトレーラーにおされ即死した。村民にとってこの事件は忘れようとしても忘れられない事件だ。隆子ちゃんの家族は大きなショックを受け、隆子ちゃんの亡くなった自分の家の庭を見るだけでもいやで、棚原さん一家は、悪い思い出のある読谷、故里を捨て別のところへ移り住んでいるという。
 昭和五四年、私の住んでいる楚辺にもパラシュートが落ちた。「演習反対!」と抗議を行っている人たち。祖父母の怒る顔には、今まで育ってきた楚辺なのに、米兵のパラシュートでつぶされるのはごめんだ。という現れなのか、あの写真は区民を守りたいという祖父母の気持ちを物語っていた。
 パラシュート演習ミスというのはとんでもありません。たとえ日米平和安保条約を結んだといっても、パラシュート演習、実弾演習が治まらない限り、いや、米兵が日本からひきあげない限り、日本は平和にへは包まれないだろう。
 古堅小学校は敷地をかなあみにくぎられ、すぐとなりが米軍基地になっている、安心して体育もできやしない。なぜなら、ボールが基地内に入ったとき、米兵がくるまでとれないからです。沖縄の土地なのになぜなの?。パラシュート演習だけでもやめさせる方法はないだろうか。今までの抗議集会がむだにならない様に願っている。なんとかして、米兵がいなくならないだろうか。一日も早く本当の平和のくる日を願っています。

※写真「兼城千波」は原本参照

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