読谷村史編集室 読谷村の出来事を調べる、読谷村広報データベース

1981年5月発行 広報よみたん / 4頁

祝渡具知むら結立て 新しい生活希望にみちて出立つ

祝渡具知むら結立て 新しい生活希望にみちて出立つ
 「祝」渡具知むらゆだて(結立)-元ムラヤー跡(通称・公民館跡)に特設の舞台がつくられ、三味の音に合わせ舞台せましに舞う渡具知区民。二七年ぶりにふる里の地で酌み交わす酒はのどの奥深くしみ込み、やっとふる里に帰れた、そのよろこびは苦難に耐えた四分の一世紀の苦労がいっぺんに吹き飛んだかのよう。渡具知港の潮騒もムラゆだてに迎合するかの如く浜辺に打ち返す波はいつもと変わり「祝・渡具知ムラゆだて」「おかえりなさい区民のみなさん」と聞こえた。
 渡具知むら結立、通称「トリイ通信施設周辺復帰先地公共施設整備事業完了祝賀会」は去る四月四日午後四時すぎから開かれた。元ムラヤー跡の祝賀会場は特設の舞台がつくられ、万国旗が大きくなびき、祝賀ムード一色に塗り変えられていた。
 ムラゆだて祝賀会には渡具知区民をはじめ、多くの来賓が出席し新生渡具知区の再スタートを盛大に祝った。参列した区民の多くは戦前、戦中、戦後といった苦難にみちた時代を体験、なかでも二七年前、米軍による強制立退きという屈辱に耐えてきただけに、この日のムラゆだてに感激する多くのお年寄りは、その眼差に一筋の大きな涙を浮かべていた。

 永いみちのりだった。一思えばなつかしいふる里、自分の屋敷跡に家を建てる望郷の念は四分の一世紀を越えた今、やっと実現した。いま、渡具知部落は新たな姿でよみがえった。すでに三六世帯が元屋敷跡に新居をかまえ、やっと安住の地に腰を降ろした。元屋敷跡への帰還指向の高まりの中で、次々と帰還計画を進める区民は多く、つち音向く区民一丸となって部落の再建に取り組み新生渡具知の建設はめざましいものが見られる。
 この日の渡具知ムラゆだて祝賀会は春らんまんな日ざしの中で行われた。式は開式のことばに続き、波平廣次渡具知区長が式辞を語られた。波平区長は「渡具知区は去った戦禍によって多くの生命財産を失ない、戦後は転々と仮住いの生活を余儀なくされてきました。一九五二年待ちに待った元部落への帰還が許され、喜びいさみもつかの間、米軍の非情な仕打ちで競技を追われました。一九七三年郷里は帰ってきました。郷里の返還に伴い読谷村、沖縄県においてトリイ通信施設跡の転用計画を策定し、多額の国庫補助を受けて旧渡具知部落の復元事業に着手しました。四年の歳月をかけて工事が完了し、私たちはこのすばらしい環境の中で、希望に満ちた生活を営むことができます。戦後三○年有余にして郷里への復帰を実現し、感謝感激にたえません。」と歓喜の式辞を語られていた。
 また、来賓祝辞として山内徳信村長は「今!やっと自分達の生れ島に帰れました。その喜びは言葉では表現できるものではありません。渡具知部落の再建は、何よりも、先ず、人間性の回復であり、同時に平和を目指した部落の再生であります。ムラの心は、区民の根性、区民の生き方の再認識、再評価であります。今や渡具知の皆さん、皆さんは、団結と協調の精神で偉大な仕事を成しとげました。それを成し得た区民の心を大切に自信と勇気をもって、平和で明るく豊かな、住みよい渡具知を目指し、今後とも頑張って下さい。」と祝辞を述べた。引きつづき伊波栄徳村議会議長、宮島那覇防衛施設局事業部長も祝辞、区民を激励した。
 そのあと、子供会、婦人会、老人会が準備した余興が披露され、渡具知ムラゆだての祝賀会は夜おそくまでにぎわっていた。
 広報よみたんでは、三○有余年にわたり、ジプシー生活をしいられ、今、ここに新たな部落再建の息吹きをみせた渡具知部落にスポットをあて、三○有余年の歳月をドキュメントルポしてみた。
◎太平洋戦争と渡具知-空からは爆弾の雨、海からは戦車砲弾、突如おそいくる銃撃、戦後三○有余年過ぎたいまなお、戦争の残酷な姿は私たちの脳裏に焼きつき、平和の尊さをいっそう強くする。先の太平洋戦争の上陸地点になった渡具知港、なかでも米軍の上陸第一歩が渡具知部落であった。すさまじい地獄絵図を見た戦慄、のどかで緑多き渡具知は一夜にして廃墟と化し、戦争という名の残酷さは区民の心に鮮烈な地獄絵図として痛ましく刻み込まれた。
◎終戦・帰郷-戦い終え県内各地に離散した渡具知区民。昭和二六年五月、六年ぶりにやっと郷里の地へ移住が許されたが郷里は焼け野原、戦争の非常さにうちひしがれた心は、悲しさの涙でいつ果てるともなく、茫然自失の日々を送る。悲痛な想いのなかに部落の再建を目指して、郷里の復興へといちるの希望をつなぎ、ゼロからの模索は始まった。
◎強制立退き-ゼロからの再建を夢みたのも束の間、渡具知区民への悲運はどこまでもまとわりついた。昭和二八年四月七日、米国民政府は布令で一難去ってまた一難、まさに泣き面に蜂の思い。
 渡具知区民は総力をあげて抵抗した。だが、米軍権力は渡具知区民の人権を虫けらの如くあしらい、やむなくその屈辱に断腸の思いで郷里の地を跡にした。
 当時、米軍は「キーストンオブザパシフィク」という太平洋の要石、要塞の構築を我が沖縄に進めた。渡具知もその洗礼を受け、時を前後して県内は米軍による非常な嵐が吹き荒れた。
◎異郷の地・比謝西原-昭和二九年四月、立退きは完了しジプシー生活を強いられた。なかには米軍権力への僧悪を一念に流転の旅立ちをする区民もみられた。鉄則を誇っていた区民は強制立退きという米軍の非常な仕打ちに一部離散を余儀なくされた。
 移転地の比謝西原は狭少なうえ、しかも借地である。地主とのトラブルも発生、借地人という肩身のせまい思いを余儀なく

※写真「渡具知むらは甦った。いま新たな出立ちで希望にみちたムラづくり」は原本参照

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