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された。逆境のなかでつのる望郷の念。自然ゆたかなふる里の大地、区民の心の中には次代に「郷里を取り戻そう」という胎動を感じた。やがて大きな叫びとなって、昭和四六年十二月十六日「渡具知軍用地解放要求地主会結成」となった。結成大会には元渡具知区民全員が出席した。四分の一世紀米軍にしいたげられたおん念は熱い炎の如く燃えさかり、大きな住民要求として精力的に請願、陳情行動が展開された。村外転出の区民の中には、つのる望郷に「一念天に通ず」と結成総会数日前から郷里の大地を夢路にみてきたと供述する者も多い。
◎渡具知・軍用地から開放-沖縄の相国復帰、それは県民的、国民的大きな願望であった。平和の旗印を高くかかげ、沖縄の夜明けは昭和四七年五月十五日と印された。だが、米軍基地は復帰後も引き続き使用され「沖縄における公用地等の暫定使用に関する法律」の綱がすっぽりかぶさった。沖縄返還協定を審議する国会で、沖縄の基地の整理縮小をはかるべき決議はないがしろにされ、日米安保の仕組まれたワクの中で米軍基地は存続、渡具知部落(トリイ通信施設)も継続して使用されることになった。しかし、渡具知区民の郷里を取り戻そう、郷里帰還指向は以前に増して燃えさかった。
昭和四七年九月、村は沖縄県、県議会に「渡具知部落の軍用地解放」を要請、村ぐるみの軍用地開放要求請願行動が展開された。かくて、昭和四八年九月十五日渡具知部落は返還された。夢杭にたつ郷里、望郷の一念天に通じた。それぞれ区民は流れいでる報道に感概深く「さあ!郷里の再建だ!」と手を取り合って喜んだ。
◎二〇年ぶりに郷里帰る-ふる里は帰った。だが、区民の五里霧中の模索はそこから始まった。緑ゆたかな元渡具知部落、もうそこにはなかった。戦争で痛めつけられ、軍事基地の構築によって、戦前の語り草になるものはすべて破壊しつくされていた。残る耕地は一大原野と化し、ススキ、ギンネムが繁茂、樹木は切り倒されそれにかわり鉄柱が群生、白い砂浜は岩膚をむき出し、昔の渡具知を語れるものは何ひとつして残らず、すべて破壊しつくされていた。しかし、郷里には変りない。怒る区民の心は暗中模索の中で、昭和四九年四月渡具知返還軍用地主会を結成、再度ゼロからの再起をめざした。
◎和解の心・境界不明地域の地籍調査-太平洋戦争や米軍によって破壊され境界不明となった土地は「沖縄の地籍問題」としてその後、沖縄の大きな社会問題になった。
各市町村や沖縄県、沖縄開発庁、防衛施設庁の行政当局においてその対策がはかれるようになり、国会の場でも論議がくり返され「地籍明確化法」の法律制定に発展した。
渡具知部落の返還地の地籍調査も、どこから手をつけてよいかわからない状況の中で、各関係機関の努力により、その実施方策として昭和五〇年十一月「読谷村トリイ通信施設の地籍確定に関する協定」が締結され、それに基づき境黒不明地域の地籍調査が開始された。
古老の記憶をたよりに、物証調査で戦前の井戸をほりあて喜び、墓地が出現し肉身の遺骨の対面に涙をさそい、お墓を建造し、不発弾に肝をひやした。困難を極めた調査も、測量業者のきめこまかな技術と集団和解に向けた関係者の話し合いの中かな、土地境界を決めるまでに至った。比例配分の面積増減や、土地の形質、形状、位置等の利害のからみあいをのりこえて、皆で集団和解した地籍図の完成は「和解の心」の戦後処理として美しく輝く成果になった。
◎新しいむらづくりへの鼓動-
昭和五一年三月「読谷村トリイ通信施設転用計画」の研究成果は報告された。返還軍用地の跡利用問題は国の施策としての地籍明確化法の返還地の利用促進条文や、本村をはじめ沖縄県でも鋭意とり組む課題になった。同報告書は、渡具知部落の上地利用の方向性が示され、軍用地転用モデル実施計両として内外から在日された。
渡具知部落の再興は転用計画書に添って着々と煮詰められ、一歩一歩前進した。同年五月、山内徳信村長は那覇防衛施設届次長根本武夫氏が村内の返還平地の現地視察の折、渡具知部落の宅地地域の復元事業を要請、トリイ通信施設周辺復帰先地公共施設整備事業(全体設計)が昭和五二年五月二〇日採択、内示された。
◎母なる大地・渡具知部落に家が建つ-母なる大地、新しい生活の希望に満ちた出発が始まった。部落再興の先陣は大湾哲彦氏、宮城静雄氏、大湾哲雄氏の三名で、その時、昭和五二年十二月。
電気、水道などの社会資本皆無の中に意を決し、ふる里建設を合言葉に渡具知の大地にのり込んだ勇敢な三人衆。長い眠りから目覚めた大地はつち音高く大きな息吹きとなって活気を呼び、その後、つぎから次へと郷里へ帰還する建築ラッシュが続いた。
◎渡具知ムラゆだて-昭和五三年施工されたトリイ通信施設復帰先地公共施設整備事業は昭和五六年四月完了した。同事業は三ケ年計画で進められ、その間投入された総事業費は二億三千九百七十一万円。その内、国庫補助が二億一千五百七十三万九千円、一般財源二千三百九十七万六千円投入された。工事の施工は昭和五三年・五四年度分は八城建設、昭和五五年度分は大協建設がそれぞれ請負った。
住みよい生活環境の整備事業は電気・水道・電話・そして舗装された網の目のような道路が縦横に走る。社会資本の投入はほぼ完了した。渡具知はいま、新たな姿でよみがえった。部落は再興された。この美しい渡具知は郷里を愛する諸人の真心の汗の結晶だと喜びいさむ区民。すでに三六世帯が郷里での新生活が始まり、一○○世帯余りが機関の準備を始めている。その時が完了した時こそ真の渡具知の「朝陽」は訪れるもので、その時こそ渡具知の戦後は終わりを告げない。
◎戦後はまだ終わらない-村総面の四七・七六%は今尚、米軍基地である。先の太平洋戦争の傷跡は村民の心に深く刻み込まれている。肉親を失い、家を焼かれ、部落を立退かされた村民今尚、牧原・長田・楚辺・宇座親志は元部落に帰れない。それぞれの集落は宇座を除いてすべて軍用地内にある。
渡具知部落は郷里の再興に新たな出立ちをした。それにつづいて宇座区が元部落に帰還する準備を進めている。旧宇座部落は景勝の地・残波岬近くに位置する。昭和五六年度から「宇座集落」旧ボーロポイント復帰先地公共施設整備事業の全体実施設計が行われる。同整備事業は四ヶ年計画で進められ、社会資本の投入をはじめ、住みよい環境整備が行われることになっている。
※写真「これからの渡具知を担う子供たち、この日の舞台の主役だった」
「渡具知を象徴する村芝居幕「朝陽」をバックに感激のあいさつをする波平区長」は原本参照