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1981年11月発行 広報よみたん / 7頁

故比嘉秀平氏初代行政主席の銅像を建立 しめやかに除幕式

故比嘉秀平氏初代行政主席の銅像を建立 しめやかに除幕式
 米軍支配下における琉球政府の初代行政主席に任命され、沖縄の最も苦難に満ちた時代の行政の最高責任者としてご活躍された故比嘉秀平氏の銅像除幕式が、去る十月十八日午後二時から字大木の建立現地で行われました。
 除幕式には故比嘉秀平氏のご遺族をはじめ、銅像建立委員や村内外から故比嘉氏ゆかりの関係者多数が参列してとり行われました。まず、長浜宗安氏の開式の辞につづき故比嘉秀平氏の孫で比嘉秀彦君(首里高三年)比嘉秀俊君(真和志中一年)長浜宗繁銅像建立委員長、山内徳信村長、それに知事代行の古謝得善県出納長によってテープカットがありました。引き続き、比嘉秀彦・秀俊兄弟によって除幕の儀がとり行われました。
 除幕式のあとは、古堅小学校体育館に場所を移し、祝賀の宴が開かれました。祝賀会には遺族や親戚をはじめ、大木区民、故比嘉氏ゆかりの来賓多数が出席し、故比嘉秀平氏の生前の威徳をしのびました。
 故比嘉秀平氏の銅像は比嘉氏生誕の地、字大木の徳武者宮近くに建立されています。銅像は高さ二・一メートル、重さ四百キロの穏和な出立ちの立像です。立像は彫刻家として権威の高い米治一氏(富山県出身)によって製作されました。像は幼少の時サーターグルマで失った右腕のソデをポケットに入れた生前の独特なポーズで柔和な表情は眼界の大木を見下ろされています。
 故比嘉秀平氏の銅像建立は、生誕の地大木区民の長年の悲願でした。昨年十一月、故比嘉秀平氏銅像建立委員会が発足したことで急速に具体化し、建立費も県から五百万円、村から三百万円の補助を受けました。それに村内外の篤志家、遠くはアメリカ・南米・ハワイからも多額の寄付が寄せられ、総額一千五百万円をかけて建立されました。
 故比嘉秀平氏は明治三四年六月七日字大木で出生されました。九歳の時右腕を失ない、傷心の暗い気持にも屈せず、生きる道を学問の世界に進まれました。大正八年沖縄県立二中を経て翌年の四月早稲田大学英文学部へと進まれます。卒業後、大正十四年四月和歌山県高野山中学校を皮切りに沖縄県立第二中・三中へと教鞭の道に入りました。
 昭和二七年四月には琉琉政府の初代行政主席として任命を受けました。時に、米軍の打ち出した沖縄基地の恒久化を意図する軍用地の一括買上げという、最も困難な問題に遭遇し、島ぐるみの反対闘争のなかで氏は問題解決のため東奔西走し、昭和三十一年十月二五日過労と心労が重なって、五五歳の若さで帰らぬ人になりました。

※写真は原本参照

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