朝鮮民主主義人民共和国を訪ねて(終) 読谷村長 山内徳信
七、踏まれた者の痛さは、踏んだ者にはわからない
かぎられた枚数になってしまった。「働く者の生活」や「豊富なエネルギー資源」については割愛するほかないが、どうしても南北分断の状況については、少しふれておきたい。
「三八度線」この言葉は、少年時代の私の脳裏に深く刻まれた強烈な印象をもつ、民族分断の悲劇の言葉として記憶している。
訪朝団は、六月二十四日軍事分界線を見た。朝鮮戦争の時の模様や、休戦協定等の資料も参観した。朝鮮戦争の時もそうであったが、最近の米韓合同のTEAM・SPIRITという大演習も、みな沖縄の米軍基地が発進攻撃の基地になっていることがよくわかる。このような大演習が、朝鮮の情勢を緊張させ、政治的、軍事的に南北統一を阻害している大きな要因である。
板門店は開城市から十二キロ離れたところにある。板門店を境に、軍事分界線は東西二四〇キロにわたっており、南北にそれぞれ二キロ、非武装地帯となっている。
驚くべきことに一九七六年から一九七九年の間に、南側の作った二四〇キロにおよぶコンクリート障壁(高さ五メートル、底巾十~十二メートル、上巾五~六メートル)がある。これこそ朝鮮人民を分断する米韓の軍事城壁であり、朝鮮人民を愚弄する時代錯誤のシンボルとして、歴史の批判を受ける時期も、そう遠くはあるまい。
朝鮮は朝鮮人民のものである。米軍によって固定化された軍事分界線が、どれ程、朝鮮民族を不幸にし、苦痛を与えてきたかわからない。「踏まれた者の痛さは、踏んだ者にはわからない」といわれる。米国も日本も、そしてそれぞれの国民も、踏まれた者の痛さを我が身の痛さとして受けとめねばならない。
私は板門店に着いて、新たな異様なものを発見した。朝鮮を分断している不幸な軍事分界線の北側に立っているのは、共和国の人民兵士であったのに対し、南側に立っているのは、朝鮮人ではなく、武装した米軍兵士のMPであった。何故ここに、米軍が立たねばならないのか?!。何故、それほどまで米国はしなければいけないのか、私は理解に苦しみつつ、自分の目で軍事分解線の実態を確めることができた。
南側に立っている米兵は、訪朝団を見て大変な緊張ぶりを示した。沖縄に米軍が上陸して、三十六年間になる。私は毎日といっていいほど米兵を見てきたのであるが、「私は今までに、これ程、恐ろしい米兵の形相を見たことがない。今にも襲いかからんばかりの興奮した状態の顔であった。」
私達が軍事分界線の建物(会議室)に入ると、武装した米兵が、すかさず窓越しにのぞきこむ者、やたらとカメラのシャッターを切る者、望遠レンズで訪朝団の写真を執拗に撮り続ける者等、その狼狽ぶりは正に異常としか云いようがない。これが板門店の現実の姿であった。
十九時、板門店を後に、非武装地帯を出るゲートの周囲には、夕暮れせまる時刻であったが、共同農場の沢山の人々が見送りに集っていた。
戦争を憎み、日帝、米市を拒否し、民族の解放、祖国の平和統一が、一日も早からんことを願っている人民の姿をみることができた。
説明によると開城市は人口三〇万人を有しているが、その七〇パーセントが、南北に肉親の分れた「離散家族」とのことであった。朝鮮戦争の際、米軍によって朝鮮民族は二分され、親子、夫婦、肉親同志が分断され、今なお続いている。これ以上の民族の悲劇があるでありましょうか。
民族の自決という歴史の原則に基づいて、民族の解放、民族の独立は進められるべきであり、かつ、自主的に平和的に実現させるべきである。にもかかわらず、日帝や米帝がそれを阻害し、固定化策動を続けてきた。
朝鮮人民を中心に、日本国民、共に闘える世界各国民は、それを許さない。日本国民は、過去の罪の償として、自覚的に朝鮮人民の解放と祖国の平和統一実現の闘いの輪を広げていく責任があるのではなかろうか。