読谷村史編集室 読谷村の出来事を調べる、読谷村広報データベース

1985年11月発行 広報よみたん / 4頁

第11回読谷まつり盛会裡に終る 泰期との出会い 「進貢船」その意義と影響について 読谷村長山内徳信

第11回読谷まつり盛会裡に終る 泰期との出会い 「進貢船」その意義と影響について 読谷村長 山内徳信
 読谷まつりも、ついに十一回の歴史を積み重ねることになった。十一月二日、二日の両日にわたって好天に恵まれ、盛大に行なわれた。
 読谷まつりは、村民の英知の結集であり、村づくりへの村民の燃え上る情熱と意欲的な実践そのものの表現であり、村民がそれぞれの立場で協力し合う、総参加のまつりである。
 まつり実行委員長として、何よりも有難く感謝申し上げなければならないことは、各字各団体の皆さんが、温かい気持で積極的に取りくまれ、最高に盛り上げていただき、まつりの歴史に大きな足跡をのこし、成果を上げて下さったことである。心から敬意と感謝の意を表するものである。
 まつり実行委員会においては、このたび、「飛翔=読谷まつり十年のあゆみ」を発刊し、村民にお届けしたところである。
 読谷まつりは、ご承知の通り、「地域に根ざした産業、経済、教育、文化、芸術の発展を」主テーマとし、「泰期ははばたいた、今!読谷の自立を求めて」という副題もかかげて、今日まで進めてきたのであった。
 読谷まつりの十回までの特色は、「足元を深く堀れ、そこに泉あり」と言われる如く、各字や各地域にある産業経済、教育文化、芸術の発堀に意をもちいつつ、伝統芸能の継承発展を意図したまつりであった。
 一例を取り上げると「赤犬子琉球古典音楽大演奏会」は、読谷まつりの「心」となり「魂」となったと思う。琉球音楽(三味線)の始租としての赤犬子が、いつまでも村民の心の中に、音楽の神様として生きつづけるようになってきた。
 赤犬子を称える三百人による大演奏会は、正に圧巻であり、壮観である。これが村民に与えた影響は誠に大きいものがある。時、同じく、学校教育の中で、郷土教材(三味線やエイサー等)を活かす教育活動が展開されているのを見るにつけ、頼もしい限りである。「足元を深く掘れ、そこに泉あり」、とは、正にこのことを言うのであり、その意味において、先祖の築いてきた文化文物を大事にし、教育の中で活かしていく意義は大である。若い人々が、これから先、世界に向って大きくはばたいていくためには、自分自身に「自信と勇気」を持たなければならない。それを与えて下れるのは、身近な父母であり、教師であると同時に、我々を温かくはぐくんでくれた故里である。無言で語りかける母なる故里の文化遺産であろう。
 読谷のまつりが「人づくりのまつり」「ムラづくり、マチづくりのまつり」である、と言われるゆえんはそこにある。
 人が歩けば道となり、その道は、やがて文化となる、と言われるように、読谷村民は、読谷まつり十年の道程を共に歩んできた。
 今、十年の歩みをふりかえって見ると、それは着実に一年一年と、読谷村の産業経済、教育文化、芸術等の発展に寄与した十年であったと思う。

読谷の飛躍を目指す 泰期「進貢船」の登場
 過去十回までのまつりを通して、伝統芸能(組踊り等)の掘りおこしにも力が注がれてきたが、今回の十一回まつりから二十回までを創造の十年、と意義づけ取りくんでいく考えである。
 我々は、読谷のまつりでなければ観れないもの、聴けないものを創り上げる努力をしてきたのである。つまり、読谷まつりの「心」とか「魂」と言うものを位置づけしょうということである。
 それを郷土の歴史に求めたのである。しかも、それが実現することによって、村民に大きな夢と希望を与え、自信と勇気や誇りをも与え得るものでなければならない。それが、三味線の始租「赤犬子」と進貢船で中国(明)へ貿易に行った「泰期」を具体化しよう、ということになったのである。検討の結果、「赤犬子」を先(第七回)に実現したのであった。
 そこで今回(第十一回)から、史実に基づき、創作「進貢船」”泰期ははばたいた”を初登場させることになったのである。これは村民の絶大なご支援、ご協力によって、まずは大盛会、大成功のうちに展開され、有終の美をかざることができたと思っている。
 その感動、その感激がさめやらぬうちに、所感の一端を記して、御苦労、御協力、御指導、御支援を賜った皆様方へのお礼の言葉に代えたいと思う。
 まずなんと言っても、まつり実行委員会の事務局を担当した役場総務課の職員を中心に関係者は、その実現成功のために敢然と立ち上り、勇気を持って推し進めた。今までにやったことのない大構想だけに、筆舌に尽せない努力と、燃え上る情熱と闘魂のような血のにじむ昼夜の努力によって実現できたものである。その誠意に満ちた努力が、一人から二人へ、二人から三人へと、それこそ大勢の村民をゆり動かし、協力しよう、という輪を作ることになったと思っている。誠に、「進貢船」泰期ははばたいた、にふさわしい実践であった。
 さて泰期という人物だが、おもろそうしの中に出てくる歴史上の人である。泰期は一三七二年、七四年、七六年、七七年、八二年と五回にわたって、察度王の命を受けて大明国に使いし、これが恒例となって数百年にわたって冊封進貢が行われた。
 参考までに、ここに初の貿易船をたたえたおもろを引用しておく。

ふるげも、のろのふし

 (十五巻六六)
おざのたちよもいや、
たうあきない、はえらちへ、
あんじにおもわれれ、
又いぢへき、たちよもいや。
 (和解)
宇座のたち(泰期)殿よ
唐商(トウアキナ)い流行(ハヤ)らし
按司に思われれ
又すぐれ(勇気のある)
たち(泰期)殿よ。

帰還貿易使節歓遍のおもろ、
ふるぼもののろのふし、

おざの、たちよもいや、
いじへき、たちよもいや、
かがみ、いろの
すでみづよ、みおやせ、
又おざとけす、うまた、
しげちかめ、はわた
又おざとけす、あすた
御酒、もち、はわて
 (和解)
宇座の泰期殿に
あっぱれ泰期殿に
鏡色の
お水(酒)捧げん
又宇座渡慶次のかしら達、
おみきをもちつれて
又宇座渡慶次のかしら達
お酒持ちつれて
 泰期は、このように勇敢な男であり、長浜の港を入口として、中国(明)の文化文物を輸入し、その後の

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