〔第306号4ページの続き〕
沖縄の進運発展に大きく貢献した人物である。
その意味で、まつりの副題「泰期ははばたいた、今!読谷の自立を求めて」としたのであった。十四世紀の後半、帆船を仕立て、大勢の若者をひきつれ、風を利用し、星を頼りにしての航海であった。
我々は今!泰期のその勇敢さ、大胆さ、積極性、進取の気性、東シナ海の大海原を乗り越える気宇を学び取り、人生への生きる糧とすると共に、読谷のムラづくりの原動力として継承発展させねばならない、それこそが歴史的遺産であろうと思う。
泰期が中国に最初に行ったのは、一三七二年であったので、今から六一三年前の話しであるが、読谷の若者達の手によって、泰期の雄々しい姿が、今回のまつりの中で再現されたのである。文化文物を輸入するということは、当時の男達の命がけの仕事であった。文化を愛し、文化を求めて中国大陸まで行った泰期の「魂と文化」は、時代を経ても尚、滅ぶことのない永遠性の証左であり、人の心を打つロマンのあらわれである。
十一月三日午後六時、快晴である。第一会場である運動広場は、小学生による琉舞・三味線の合同発表会を終え、特設大ステージの周りには、数万余の観衆が集っている。その雰囲気は正に、興奮とどよめきの渦がまいている状態であった。
いよいよまつりのクライマックス。創作「進貢船」のスタートである。これは中国から泰期が船一杯、文化文物を満載して、東シナ海の波濤(はとう)を乗り越え、その使命を果した帰還船の雄姿である。誠に勇壮であり壮観である。大きな帆を上げ、静かに、しかも、重々しくすべりこんで来る、という感じである。
泰期一行の乗った進貢船の帰りを知らすため、遠見台では、烽火(ほうか)が燃えさかる。燃えさかる炎は、いつの世にもかわることのない、人間のもえあがる情熱であると同時に、六百年の歴史を一瞬に結びつけたロマンの表現であった。
船の舳先(へさき)には、どっしりと泰期が立ち、二人の従者がつき、大きく手をふり、声をあげ、歓迎の群衆へ応えていた。
船には、四十人余りの人が乗り込んでおり、その中には、船の安全走行を神に祈る気持で、じーっと見守っている二人の男がいた。進貢船建造に頭初から、かかわってきた玉城宏次、金城繁信の二人である。
舵(じ)は今年五十歳になったベテランの金城吉昭がしっかりと握っていた。
船の安全接岸を祈って、船の周囲には、渡具知東原(アガリバル)(現在、沖縄県内で最も古い貝塚)から採火した聖なる烽火隊(村内若者有志)が伴走。東シナ海の荒波や、あるいは静かな海を伊良皆青年会が太鼓で表現し入港してきた。
初航海の成功を喜び合う船上の泰期一行、それを迎える陸(オカ)の群衆、お互に指(ユビ)ブエをふき、銅鐸(ドラ)を打鳴らし、法螺(ホラ)を吹鳴らし、相呼び相叫び合う姿は、正に人間の最高の感動であり、歓喜の姿である。
陸にのぼった泰期は、「ナマ、ケーティチャビタン…………」と、帰還の挨拶をし、それを受けて、村(ムラ)の長(オサ)が、歓迎の挨拶を述べた。
村(ムラ)をあげての進貢貿易船帰還祝賀会が、人々の喜びの姿として表現された。特設大ステージの上では、合唱(読高、せせらぎ、南小PTA合唱団)、合同バンド(読中、古中)創作太鼓(村内若者有志)、婦人会群舞(村婦人会)、島唄、三味線(島唄研究会)、空手演舞(大城道場)、太鼓ばやし(むつみ会)、作田舞(長浜)、棒術(宇座)、火守人(渡具知)等々、三時間余にわたり、総勢六百五十人余による熱演は、実に壮大であり、豪華絢欄(ごうかけんらん)たる人間のうるわしくも、又、たくましいドラマの展開で
あった。
今回のまつりは、まつり会場から再び泰期を船に乗せ、第二回目の貿易船として、中国大陸へ出帆(しゅつぽん)させ、村民で見送りしたところでフィナーレとなり、未来へと希望をつないだ。
したがって、来年は又、泰期が船一杯に「文化文物をつんで、読谷の長浜港に帰ってくるのである。読谷村民は、今年と同様、いや、それを上まわる村民の情熱と努力によって、泰期を迎え、まつりを成功させる心意気に燃えている。
むすび
読谷村民は、十回までの積み重ねの上に、今回の十一回読谷まつりを成功させた。まつりに結集された、あのエネルギー、あの情熱あの遅しい姿は、村民の心意気の表現であり、読谷の文化及び産業の発露(はつろ)であり、教育の実践であり、夢と希望に向っての大きな実践の成果の集約であった。
「足元を深く掘れ、そこに泉あり」と、読谷村民は、沢山の泉(各字、各地域の伝統芸能等)を掘り出し、そこから湧き出る真水(まみず)が村民、わけても青年や子供達に大きな誇りと勇気を与え、ることになったと思う。
今、読谷の地に、地方文化の花が村民の努力によって咲きつつあるのを実感として感ずる昨今である。
さて、最後に、今回の創作「進貢船」=泰期ははばたいた=。は、一体どのような意義があり、どのような影響を村民に与えることになったであろうか、そのことをいくつかまとめておきたいと思う。
第一に、読谷村民は六百十三年前、読谷の地で大活躍をした泰期の存在を知り、過去(泰期)との対話ができたと言うことである。
第二は、泰期との出会いによって、彼の勇敢さ、進取の気性、大胆さ、積極性という、人間の生き方を学ぶことができたこと。
第三は、泰期との出会いは、村民の視野を読谷を基軸として、中国アジア→世界へと拡(ひろ)げる役割を果して下れたこと。
第四は、泰期にあやかって、今、我々は、読谷の自立のために、何を、どのようにすればよいか、大きな示唆を与えてくれたこと。
第五は、泰期との出会は、読谷村の青年達一人びとりの情熱を湧きたたせ、それが、「進貢船」を作ろう、そして中国へ行ってみたい、という大きなエネルギーとなって燃えたのである。
第六は、まつりに向けて「進貢船」を作っている、ということを知った、村内外の大勢の人々が温かいご協力、ご声援、ご支援を送って下れたこと、それは、人間がたくましく生き、たくましく取り組んでいる者への共鳴の美しい姿である。
志は高く、実践は足元から、正に「進貢船」=泰期ははばたいた=、によって、読谷村民は大きな感動と感銘を受けた。特に、青年達の目が、今、泰期が風を利用し、星を頼りに行った、中国へ、あるいはアジアの国々へと向いつつあるのを肌で感ずるのである。
二十一世紀に向けてはばたく青年達が、これから、大きく世界へ飛び立つ、そういう動機づけにもなるのではなかろうか。
その意味で、読谷まつりは、人づくりのまつりであり、ムラづくり、マチづくりの大きな胎動であり、地域運動である、と言っても過言ではない。
最後に、第十一回読谷まつりに寄せていただきました村民各位のご協力、ご支援に心から敬意と感謝の意を表し、御礼申し上げます。