読谷飛行場転用計画
第一章 読谷飛行場の概況
一、沿革
(1)旧日本軍接収
当飛行場は、戦時下の昭和十八年夏以降、旧日本軍により強制的に接収された。後すぐに設営工事が着工するが、翌年の十・十空襲(昭和十九年十月十日)を受けるまで、工事が続けられながらも飛行場として使われた。
(2)米軍占領・使用
しかし、昭和二十年四月一日米軍の沖縄本島上陸と同時に占領・拡張され、そのまま飛行場として使用された。さらにその後は米軍の落下傘降下訓練場として転換されてきた。
(3)復帰後も継続使用
沖縄の日本復帰に際して、米軍への提供施設「読谷補助飛行場」とされ、降下訓練場として継続使用されることとなった。その後、昭和五十三年までに約1/3の返還がなされ、昭和五十五年より降下訓練場の移設が検討中である。
二、現況
(1)位置及び面積
当飛行場は本村の中央部に位置する。復帰時の面積は二九二・三㎞であったが、昭和五十三年までに一〇一・五㎞(約1/3)が返還され、現軍用地面積は一九〇・八㎞である。なお当該用地は旧軍用地を占有しており、その面積は二五五・五㎞(現軍用地内一六七・八㎞、返還軍用地八七・七ha)である。
(2)使用現況
読谷補助飛行場は、現在、在沖米海兵隊に管理され、使用目的は米軍の落下傘降下訓練場として使用され、一部隣接通信施設の「緩衝地帯」として利用されているが、昭和五十五年に訓練場移設が日米合同委員会で決定され、現在、移設調査中である。なお、現況は滑走路及びエプロンが一部残っているが、壊廃ならびに部分返還により使用不能である。
ほぼ全域が平担なカルスト台地で、大半が黙認耕作地として利用されている。
(3)共同使用
読谷補助飛行場の一部が昭和五十三年村民の要請によって、共同使用の手続に基づいて、現在村民運動広場として使用されており、さらに沖縄国体を控えて目下その競技場の設置が鋭意準備中である。
※表「表1 読谷飛行場面積」、図は原本参照