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第二章 読谷飛行場問題の所在と経緯
一、所有権問題
(1)臨戦下緊急接収
当飛行場は「昭和十八年夏、陸軍航空本部経理部が直轄工事として沖縄北飛行場の設定に着手した」とされている。しかし、臨戦体制という緊迫した状況下での接収であり、国への土地所有権の移転については立証がなされず重大な疑義があるが、今日に至るも問題は解決されていない。
(2)戦後土地所有権認定作業
戦後、米軍布告七号「財産の管理」により米軍の管理下におかれている中で土地所有権認定作業(昭和二十二~二十三年)が実施された。旧読谷飛行場用地については、所有権申請をするなとの米軍の指導がなされ、問題をかかえたまま字所有権委員会の机上作図を経て、所有者が日本政府と記載された所有権証明書の作成(昭和二十六年)へと至った。
(3)読谷村の事情調査
これについて読谷村長は疑義を持ち、本土調査及び関係機関への照会(昭和四十~四十三年)を行うが、接収事情不明のまま米軍基地として管理使用されてきた。
(4)所有権回復要請
復帰に際して、当用地は国有財産としてはじめて登載された。この措置に対し、疑義の声が高まり、当該用地が不当に接収された経緯を踏え、戦後処理の早期実現を求めて読谷飛行場用地所有権回復地主会.読谷村・読谷村議会などにより度重なる所有権回復要請が行われた。
(5)国会審議
この問題は国会においても取り上げられ、厳しい審議が行れた。しかし、大蔵省により「沖縄における旧軍買収地について」(昭和五十三年)の報告がなされるにおよんで、見解が対立し審議は平行線をたどった。
(6)沖縄開発庁長官提案
この膠着状態について、昭和五十四年六月沖縄開発庁長官は「問題は未解決であるが、利用計画に基づき沖縄振興開発特別措置法の運用によって解決できないか」との見解を表明した。
(7)国会・衆議院決算委員会において議決
さらに昭和六十年三月、衆議院決算委員会の「昭和五十六年度決算委員会議決」において、「沖縄県読谷村内の国有地問題はいまだ解決していない。政府は沖縄県の国有地の現状に配慮し、早急にその利活用が図られるよう努めるべきである」と議決し、その具体的な方向づけとして、「次期常会」(昭和六十年十二月国会)に報告するよう政府に求めてきた。
二、地籍問題
(1)位置境界明確化事業
沖縄戦により地形、地物が著しく変貌し土地の現地確認が困難であり、地籍の明確化がかねてからの懸案であったが、昭和五十二年より位置境界明確化事業が那覇防衛施設局の管轄で実施されることとなった。
(2)事業難航
ところが、戦後所有権認定作業当時に机上作成された公図・公簿は二五五㎞におよぶ広大な土地であるにもかかわらず、米軍使用の飛行場という制約もあり、立入調査が不可能なため、机上作図によって二十四筆にまとめられ、旧土地実態とあまりにもかけ離れているため、位置境界明確化事業は困難をきわめた。
(3)旧土地及び旧所有者の実態調査
昭和五十三年十月、読谷飛行場所有権回復地主会は戦前あった土地の配列図を作成した。その結果二、二五六筆に及ぶ旧土地の実態と、六六四名の旧地主関係者を明確にした。
(4)旧土地復元表示要請
そこで、国有地とされている土地は不存在であり、旧土地復元表示と所有権の回復を要請したが、位置境界明確化事業においては所有権の判断はなじまないとして、未解決のまま作業は進められた。
(5)「覚書」と「確認書」
しかし、この配列図を基礎として位置境界が一部を残して認証されることとなった。そこで、この事業が旧地主による配列図によって作成されたという経過との関わりにおいて達成されたという事情が「覚書」(昭和五十六年)として明文化され、なお今後問題解決のための協議窓口を定めた「確認書」(昭和五十七年)が締結された。
三、基地被害及び紛争
(1)基地被害
米軍ジェット機の燃料補助タンク落下による幼児の死亡事故(昭和二十五年)さらにパラシュート演習で投下されたトレーラーによる少女圧殺事故(昭和四十年)等、いたましい事故が発生したが、復帰後もなお事故は絶えず、今日記録されている被害だけでも二十数件に及び、もはや忍従の限度を越えている。
(2)アンテナ設置反対運動
読谷村民は、読谷補助飛行場の返還を強く求めている状況であり、それに加えて基地被害に対する村民の危機感は強く、米軍の一方的なアンテナ設置工事が行われようとした(昭和五十一年)、それに端を発し、激しい基地返還運動が展開された。その結果、アン