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1986年4月発行 広報よみたん / 2頁

六度び内外に「平和宣言」 村民とともに21世紀を展望するムラづくりを推進 昭和61年度施政方針 1はじめに

六度び内外に「平和宣言」村民とともに21世紀を展望するムラづくりを推進 昭和61年度施政方針

 第一四九回村議会定例会は去る三月十二日開会され、三月二九日までの十八日間、昭和六一年度一般会計予算を始め多くの議案が審議されました。
 三月議会定例会は、通称、予算議会とも呼ばれ、四月一日から執行する昭和六一年度予算について審議するのが主です。
 又、議会の冒頭、山内村長の示す「施政方針」は村政の方向性を決定する最も重要なものです。
 山内徳信村長は、一万五千字に及ぶ昭和六一年度施政方針演説を行い村民並びに議員各位の理解と協力を求めました。
 その中で六度び平和宣言をするとともに、「人間性豊かな環境・文化村」をめざす諸施策を打ち出し村政運営の基本姿勢を表明しました。
 又、本年度は、国体・ソフトボール会場建設にも着手、読谷飛行場問題解決の進展の年ともなります。
 広報よみたんでは山内村政の「昭和六一年度施政方針」を村民に広く知らしめ、ご理解と、ご協力を賜りたく、その全文を掲載しました。

1 はじめに
 本日ここに第一四九回読谷村議会定例会の開会にあたり昭和六一年度の予算案をはじめ諸議案の説明に先立ち村政運営の基本的姿勢と所信の表明を行い、議員各位並びに村民の御理解と御協力をお願い申し上げる次第であります。
 さて、今年は沖縄戦が終って四一年目、米軍の直接統治を断ち日本復帰をして十四年目になります。
 沖縄の歴史は一時代をのぞくと県民主体の歴史ではなく、絶えず外圧によって県民は抑圧され、苦難と犠牲を強いられてきた歴史でありました。沖縄が政治的・軍事的側面からのみ位置づけられ利用されてきた時代は「沖縄県民の最も不幸な時代」であったと言わなければなりません。島津による搾取と抑圧、明治政府による差別と圧政、第二次大戦下の沖縄戦における本土防衛の盾としての軍民混在の死闘の展開、戦後二七年間の異民族支配、そして復帰十四年経過したというのに巨大な米軍基地のある沖縄、その比率は実に日本全体の五三%がこの小さい沖縄に集中し、県民の上に重くのしかかっている状況であります。
 沖縄県民の意思とは無関係に安保条約や地位協定が優先され、我々県民の生活権、幸福権、環境権そのものがおしつぶされている現実をみたとき、心からの憤りと怒りを禁じえないのであります。
 戦後四〇年が経過する中で、日本政府は平和憲法の理念を忘れ、むしろ平和憲法そのものを骨抜きにし、日米安保条約は「軍事同盟」であると公言しつつ、軍事大国を目指し、国民の教育、福祉、文化、生活を抑圧して軍事費を突出させる予算編成等、正に反憲法的、反国民的行為は誠に遺憾であり、そのことを容認することはできません。
 沖縄県民は「核戦争」勃発の際には米軍の核基地の存在によって真先に攻撃目標にされることを知っており、また自衛隊が反憲法的軍隊であり、軍隊(自衛隊)そのものは最終的には国民を守り得ないこともよく知っております。そして第二次大戦中、日本国民は、「国策に従え」という政府の指導に追従させられてきましたが、我我は再びその「過ち」と「愚」を繰り返してはなりません。その「過ち」を忘れないということが人間として大切であり歴史の教訓であるからであります。
 今後の戦争(核戦争)には勝敗はなく、あるのは人類の滅亡のみであり、従って平和に勝る福祉は

※写真「施政方針を演説する山内徳信村長」は原本参照

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