先の大戦による本島北部への疎開から四十一年の歳月を経て、いよいよ喜名地区の移転先地公共施設整備事業の工事が着工されることになりました。
昭和二十年、米軍の沖縄占領と同時に、国道五十八号線の東側は嘉手納弾薬庫として現在まで使用されていますが、戦前の旧喜名部落の大部分がその中にあり、今だ返還されず、喜名区民は昭和二十一年の帰村当時は波平、高志保地域へ、又昭和二十三年、喜名地区への居住許可も国道西側の一部地域に限られ、現在の喜名区の集落となっています。
東を嘉手納弾薬庫、西を読谷補助飛行場、北を不発弾処理場にと、米軍の基地に囲まれた狭い地域に多くの区民が居住した喜名区は、四十五年以降、不発弾処理場や、読谷飛行場の一部返還などで居住区域が広がりましたが既に形成されている集落の中で大変不便な生活環境を余儀なくされてきました。
今回の移転先地公共施設整備事業は、渡具知、宇座、儀間の復帰先地公共施設整備事業に続く大規模の公共施設整備事業となっており、西原、中原地区の整備では、総延長三千七百三十・八mに及ぶ二十七本の道路と六百八十mの排水路が整備され、公民館周辺の住宅密集地では七百四十六mの道路と四十mの排水路が整備されることになります。
総面積三七・四ha(中原、西原地区二二・七ha)、総工費約十三億円、約十年に及ぶこの事業で喜名区の生活環境が著しく改善されていくことになります。