第五回読谷村―池田町児童交流団は去る一月三一日読谷村を出発し、池田町での貴重な研修を終え二月五日、元気に帰村いたしました。
児童交流団は渡久山朝章団長(古堅小学校々長)以下引率二名、各小中校代表児童生徒十四名で、極寒の北海道ははとんどが初体験、一月三一日午前六時半読谷村を出発して池田町到着は午後四時過ぎという強行軍でしたが、一面の白銀の世界に圧倒され、池田町の人々の温い歓迎や、半年ぶりの池田町のお友達との再会に感激の一日となりました。
沖縄と全く異なる自然の中で、子供達の目は生き生きと輝き、冬まつりでの町民とのふれあいや、池田町内の各小学校への一日入学で交流を深め、カーリングや、スノーモビルなど雪国ならではのスポーツを楽しみました。
民泊で家族とのふれあいを深める中で雪国の生活の厳しさを体験し、又北海道の人々の開拓の歴史と池田町のすばらしい町づくりを肌で感じたことでしょう。
読谷村-池田町の、この交流事業も山口児童文化研究所(山口秀和所長-東京在)、全日空の多大な御協力を得て今回で五回目になります。次代を担う子供達に生涯忘れ得ぬ貴重な体験となると同時に夢と希望、自信と勇気を養わせるものとなっています。
あこがれの北海道へ
読谷小学校六年 上地美穂
いよいよ今日は出発の日です。いつもは起こされるわたしも、今朝はすぐ目が覚めました。朝早くからの出発式、これから六日間家族とはなれなくてはならないのかと、ちょっと不安もあったが、「北海道・銀世界の北海道」という気持のほうがずっと強かったのでうきうきのし通しです。その気持は、飛行機に乗ってから、どんどん大きくなっていきました。
東京を経て釧路空港へ着いたのは、午後四時半ごろ、本当に長い長い沖縄からの旅でした。空港ロビーでは、なつかしい池田町のお友だちが「ようこそ、しばれる池田町へ」と書いた旗を持って、にこにこ迎えてくれました。
とても会いたかった志保さんの顔も見えて、わたしはホッとしました。
外に出て初めて見る一面の雪、つい飛び出して雪の中へ入っていきました。冷たかった!やわらかかった!白かった!光っていた!初めて手にする雪、夢にまで見た雪、これから一週間、この雪の中で生活するのだと思うと、たまらなく嬉しくなりました。
窓からじっと雪を見ていました。
その日は池田町の冬まつり、わたしたちが一生けん命練習したエイサーをひろうします。エイサーの伝しょうの上から着ていた暖い防寒服や手ぶくろをぬぎ、耳あても取りました。冷たい空気に身ぶるいしたけれども、エイサーを始めるととても暑くなり、首の方だけ汗もにじみ出ました。雪の上で汗をかくなんてとても不思議に思いました。エイサーのかけ声や動作が雪に負けてしまったようで残念でした。
その後、資料館へ行きました。そこには、自然による災害や発明工夫などが、写真や模型によって展示されていました。沖縄では、とても考えられない災害がここではあるんだなと思いました。
午後からいよいよ民泊です。始めてお会いする志保さんのお母さんは、とてもやさしく、特に深みのあるお話の仕方は、わたしをひきつけました。この大雪の中で本当にびくともしない頼もしい志保さんのお母さんのお言葉一つ―つが、私の民泊での生活を楽しいものにしてくれました。母が、わたしの猫舌の事を知らせたおかげで
夕食会の席で一人一人どんな学習、体験をするのか発表しました。わたしは、
「雪の中で、そこに住んでおられる人達がどんなふうに過ごしているのか、沖縄とはどうちがうのか知りたい。」などと話しました。
翌日、あまりわくわくして朝の五時半にとび起きました。外に出て、雪の上で遊びたかったけれど、起床の約束が六時半だったので、志保さんのお母さんは、ラーメンを食べるときは小皿の用意、お茶を飲む時は冷やして、という気の使いようで大変でした。
志保さんの家族の方といっしょにスキーをやりました。一生けん命教えてもらったのに、いくじのないわたしは足がすくんで身動きできません。とうとう途中で用具を外して帰る始末でした。
北海道の旅を終わって我が家に着いたのは夜の十一時、ぐったりとつかれているのに、ねむるどころか反対に父母を夜中の一時までねかさず、旅のことを話し続けました。わたしは、北海道が大好きになりました。絶対にまた北海道池田町へ行きます。