読谷村史編集室 読谷村の出来事を調べる、読谷村広報データベース

1987年8月発行 広報よみたん / 4頁

青少年健全育成大会から「僕の育った環境」 古堅中学幸喜順

 僕は小さいころから、まわりからみると、ちょっと厳しすぎるのでは、というくらいの両親の教育のもとで育ってきました。母は、テレビのコマーシャル以上に何度も何度も同じことをくり返し言いました。父はいつも無口でしたが、僕があやまちをおかしたときには、短い時間ではあるがきつく僕をしかりました。
 小さいころの僕には、母の「あいさつをきちんとしなさい。」「あいさつをするときには、あいてに
聞こえるようにしなければ自分の気持が伝わらない。」とか「他人の力になってあげなさい。」という言葉が自分にどうプラスになるか分からず、ただその言葉に従っていました。しかし、最近になって、あいさつのあたえる気持のよさを知り、母の言葉が分かってきたような気がします。僕が今のようにはずかしさや、なんの抵抗もなくいろいろなことができるのは、母の小さいころからの何度も何度も同じことを言うといったしつけのおかげだと思います。
 最近、先生方の話の中で、父兄から学校は服装や身なりについて、どう指導しているのかとしかりを受けると聞くが、服装・身なりについては、親の教育であって、学校は”制服”というのをきめてあるのです。僕の両親は、服装についてもきびしく、僕は中学に入学するとき父と三年までぼうしをかぶる、という約束をしました。しかし、それは残念ながら守りきれませんでした。というのは僕は中学二年の一学期までぼうしをかぶっていましたが、ぼうしをかぶっている人はだれもいないのに、一人だけぼうしをかぶっているということからか、三度もぼうしを盗まれました。そのつど父がぼうしを記章を無言でそろえてくれましたが、四度目にはぼくが断念してしまいました。今考えてみれば、あの時もっと強い意志を持っていれば、今でもぼうしをかぶっていたと思います。それから、登校のさい、白のくつ下がなく、うすい水色のくつ下で登校しようとしたら、母が、準備がわるいのは自分のせいだというので、ぬれた白のくつ下のうえからビニールをはき、くつ下をはいて登校したこともありました。
 ふつうならこんな厳しい親だと、子は反感を持つ、とかいいますが、僕の家でそれがないのは、たぶん兄弟三人、なんらかの点で親とのつながりがあり、何をするにも親が見ていてくれるからだと思います。兄は、アマチュア無線で、姉は絵画や読書で、僕は居合道や謡で親とすごす時間があります。
 まだ、自分がどんな人になるか分からないし、また他人が自分をどう評価するかも分からないが、僕はこんな環境で育ってきました。
 僕のいる古堅中は、なにかとよからぬ話の原点になっているようですが、現在は、そんな話のような学校ではありません。しかし、他の人はどうも妙な先入観をもっているようで、僕のいとこなどは、ありもしないことをたずねたりします。これは、人間全体に言えることですが、外見で人を判断しがちだということです。例をあげてみれば、いわゆる問題児とクレームのついた生徒ですが、外見からするに、いかにも人の言うことをきかず、悪いことをしているかのように見えますが、実際は、そうでない友達が多いのです。
 以前、僕が、北海道池田町との交流に参加し、おみやげにお菓子を少し持ち帰りました。しかし、一言ありがとうと言ってくれたのは、いつも職員室に呼び出されている友達でした。それと、ちょっと勉強について一緒に考えても、ありがとうと言うのもこのような友達です。これから見ても、他の生徒よりも、素直さやいい面を持っていると言えるのではないでしょうか。しかし、こんな小さなことに、だれも気付かず、そんな生徒をしかってばかりいては、せっかくのかくれた素直さがいしゅくして、ひねくれさせてしまいます。こんなあつかいを受けた生徒は、大人をあいてにしなくなり、ましてや、勉強を教えてくれる友人をもあいてにしなくなり、社会に背を向けてしまいます。
 今、必要なのは、しかって改心させようとするのではなく、なにかその人の良い所を見つけ、それを伸ばしてあげることではないでしょうか。それには、まず信頼してやることが大切で、思いだしたようにではなく、毎日でも同じことを誠意をもってやってあげれば、やがては理解してくれると思います。
 外見が悪いとか、いろいろ言われるが僕は自分の友達や学校が好きです。

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