読谷村史編集室 読谷村の出来事を調べる、読谷村広報データベース

1987年11月発行 広報よみたん / 7頁

第13回読谷まつりへの御協力心から感謝を申し上げます 読谷まつり実行委員長 読谷村長山内徳信

一、はじめに
 読谷まつりが盛会、成功裡に無事終了した瞬間、役場職員、実行委員のメンバー、村民の間にお互に肩を抱き合って感激と喜びの涙を流し、苦労をねぎらい合っている姿が目にうつりました。何とも言えない人間的な温か味のある光景でありました。
 今年は海邦国体、かりゆし大会等、大きな行事があり、年度初めに「まつり」の取扱いについて、会議を開いたのですが、結論として、①まつりに空白を作ってはいけない。②まつりは読谷村の村づくり、人づくり運動であり、他の行事との関係で中止すべきではない。③読谷のまつりは、もはや村民だけのまつりではなく、県内外からの参観者も多く、中止すべきではない。④多忙の中でも、それをやりぬくところが、読谷村民の心意気の表現である等々。
 まつり開催を確認し、その準備を担当職員、まつり事務局を中心に進め、本番になると全職員、全実行委員団体、各字、音楽及び舞踊関係者、NTT、村内関係業者、その他大勢の団体個人の協力によって、読谷まつりはいやがうえにも盛り上ったのであります。誠に感謝にたえない次第であります。

二、村民ぐるみ盛り上ったまつり
 今回の読谷まつりが、例年を上まわる盛会裡に、計画通り終了出来ました陰には、天の恵みと導きがあり、人の和(善意の協力)の成果でありました。
 正直なところ、海邦国体、かりゆし大会と関係者にとっては、目のまわる多忙な連日連夜であり、多事多難、複雑多岐の織り成す厳しい状況の中で、”読谷まつりは自分達の手づくりのまつりであり、是非とも成功させよう”、と云う村民の大きな決意が伝わってきました。
 敗戦後、読谷村再建の先頭に立たれて頑張られてきた老人クラブの皆さんからの声、「「イジイッチクンパリヨー・マツリヤ・ンナシリキラチンダナ」と。婦人会、青年会、各学校(児童生徒)の取り組みも一段と力がこもっていて、関係者の熱意とご努力に心から敬意を表する次第であります。
 読谷まつりが、村民ぐるみと言われるのは、実行委員会を構成する団体が十四団体あり、即ち、読谷村、議会、教育委員会、農協、漁協、商工会、読老連、村婦人会、読青協、村区長会、読P連、花織組合、校務研究会、読子連等であります。
 他市町村で見ることの出来ないあの野外の大ステージは、それ一つで読谷まつりの作品となり、目玉でありますが、読谷村内外で仕事をしている業者の皆さんの、まつりへの協力の具体的な姿であり心から感謝申し上げます。
 テープカット、オープニングセレモニーに花を添えてくれた小中学生の集団演技によって読谷まつりは華々しく開幕したのであります。
 まつり開催中、ずっと頑張っていただいた農協の農産物展示即売会、商工会、漁協、福祉関係者の各テナント営業(出店)。盆栽展、菊花展、読谷山花織展示即売会、映画祭、体育館における小中校、読P連、読老連、ラン展を含む総合作品展示会、親子三代ゲートボール大会、読青協駅伝大会、ちびっこ相撲大会、小中学校生、子ども会、婦人会、老人クラブの団体集団演技、「受け継ごう読谷の心」の校内各小学校の演奏、残波大獅子太鼓、囲碁大会、ちびっこ琉舞発表会、高志保の組踊発表会(八重瀬)、歴史民俗資料館展示等々を内容とし、二日間のまつりは展開されたのであります。
 しかし、まつりの表に出て、観衆の目にとまるもののみがまつりを支えているのではありません。湖水に浮かぶ白鳥は、静かに浮いているように見えるのですが、前へ前へと進んでいくのです。人間の目に見えない水中で、一生懸命足水をかいているのです。
 それと同じように、読谷まつりの為に、それを成功させる為に、表には顔を出さない沢山の協力者がおり、それこそ縁の下の力持ちとして、各団体、各字、各地域で頑張っておられることを、我々は肝に命じ、感謝しなければならないのであります。

三、村おこし、人づくりの原動力として
 まつり二日間の目玉であり、自他共に、これは読谷のまつりでなければ”見れない、聞けない”と言うものがすでに出来上った、という感じであります。
 初日の「赤犬子琉球古典音楽大演奏会」が、その一つである。「歌と三味線ぬ昔始まりや犬子ねあがりぬ神ぬ御作(みさく)」、と称えられているアカインコをお迎えして、琉球音楽(三味線)の始祖として、又、五穀豊饒の神としてたてまつり、村民三百有余名による琉球古典音楽の大演奏会(斉唱、舞踊、器楽合奏)が展開される様は、正に豪華絢燗たるものであり、沖縄文化の真髄を見る思いであります。
 その二つ目が、創作「進貢船」と言う物語です。これは今回で三回目であり、一三七二年、奏期と言う青年が中国(明)へ貿易に行く、彼は五回貿易に行っており、おもろさうしによると、彼は読谷(長浜港と推定される)の港から船を出している。
 沖縄の最も意気盛んな十四、五世紀の大交易時代の先駆者として活躍し、沖縄に中国をはじめアジアの国々の文化文物をもたらした勇敢な男であり、進取の気性、大胆さ、積極性に燃えた男である。
 二十世紀の後半に生きる私達読谷村民も、この泰期の心意気にあやかって、泰期に負けない村づくりをしよう、と云うのが目的であります。
 貿易船としての「進貢船」が無事に大海原を乗り越えて帰還する。それを称えての大祝賀会が展開され、そして再び、中国へ出帆するという物語でありますが、これに実に六〇〇有余名の人々が出演するのであります。
 天を屋根と仰ぎ、母なる大地をまつり会場として、夜空にくっきりと浮び上った帆船と、その上に乗った勇者達を見た時、壮大なロマンと感激と感動を覚えない人はいないであろう。
 この二つのドラマが、村民(児童生徒を含めて)に大きな影響を与えており、我々の住む読谷村の足元を深く見つめなおそうとする探求心と文化の永遠性と偉大さを学びとるまつりともなっているのであります。
 最後になりましたが、まつりの一環としてトライアングル・ファイヤーと銘打ち、島と半島(岬)を結ぶ心の交流を計画し実行できたことは、一つの大きな成果でありました。読谷(残波岬)を中心に渡嘉敷島と伊江島を炎で結び、まつりを通して青年達に村づくりへの参加の主体性を認識させようとした試みでありました。
 この呼びかけに心から御理解をいただき御協力下さいました両村の関係各位に厚く感謝を申し上げる次第であります。
 意あまりて言葉足らずで、十分なる感謝の意も尽せておりませんが、第13回読谷まつりが成功盛会裡に終了出来ましたことを、皆様と共に喜び、感謝の御挨拶と致します。

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