第1回読谷村平和創造展 村内外から高い関心 平和の悲惨さ平和の尊さを問い直す 【写真:オープニング:正面入口:平和を愛した沖縄の人々:友好的な読谷山の先人たち:戦前の読谷村:沖縄戦①戦時色にぬりつぶされていく読谷村:②米軍上陸と戦闘:③戦時中の食糧と住民被害:④遺品、爆弾:特設コーナー戦場と化した読谷村:戦後、住民の帰村:米軍基地の変せん:目にあまる米軍演習】御礼
第一回読谷村平和創造展が去る十二月八日~十一日まで開催され村内外から高い関心を集めました。
期間中、午前十時から午後八時までの展観に人出が絶えることはなく訪れた人々は延べ千五百人余、戦争体験者から、戦争を知らない世代まで、それぞれの目でこの平和創造展を見て、そしてそれぞれの思いを胸に秘めました。
この平和創造展は、これまで本村の進めてきた文化村づくりー平和な村づくりを具体的な形で展示ー。戦争とは、平和とは何かを、日常の生活の中で、村民一人一人が共に考え、平和な村、平和な社会を実現する場としたいということから開催されたもので、展示の内容も古きよき読谷山から戦前、戦中、戦後、そして将来屋望へと続けられていきます。
そこには脈々と受けつがれてきた素朴で友好的な沖縄、読谷の人々が戦争へ戦争へと流されていき、沖縄の歴史始まって以来の悲惨な戦争体験と数十万人の尊い犠牲を強いられていく過程があります。
又、戦後、傷つけられた体と心にムチ打って、廃虚と化した郷土の再建へ向けて不屈の精神で立ち上がった人々のたくましさがあり、平和で輝く未来の創造へ情熱を燃やす人々の希望がありました。
古きよき読谷山一戦前の素朴な暮らしに心なごませる一方、戦争中のパネル写真、遺品の前に立つと、何度も涙をふくおじいさん、おばあさんの姿、無惨な写真に目を伏せる婦人や子供達、読谷村の基地の移り変わりと跡地の平和利用にうなづき、今なお激増する米軍演習とその被害にこぶしを握る人々、そして読谷飛行場の将来展望-黄金の花さく村づくり一に目を輝かせる人々など様々でした。
期間中毎日通ったという村民、写真の中になつかしい家族、知人の姿を見つけた村民、戦争当時の悲惨な体験を思い出し身振いしたという村民、子供に説明書きを一つ一つ読み聞かせるお母さんなど平和展は訪れた人々に予想以上の反響を与えたものとなりました。
展観初日、オープニングに臨んだ山内村長は「三年がかりで準備してきたこの平和創造展は、これまで村民と共に築き上げてきた村づくりー平和運動の具体的展示であり、村民が日常生活の中で平和とは何かを問い直すものとなり、読谷村としても平和施策を行政の一つとして位置づけるという意義深いものになります。」と話し、平和創造展開催の重大さを訴えました。
オープニング
第一回平和創造展が去る十二月八日開催、山内徳信村長、儀保輝和村議会議長、安里勉県立平和祈念資料館長、玉城キク氏らがテープカット、期間中村内外から千五百人余が訪れる。
ゲート脇には、米国制の一トン、五百キロ爆弾が置かれ人目をひいた。
正面入口
昭和十五年頃の渡具知部落を聞き取りによって絵地図に再現(渡具知は沖縄戦での米軍上陸地となった)。その下には、シーサー、民具等が並べられのどかな戦前のくらしがしのばれる。
平和を愛した沖縄の人々
一八一六年琉球を探検したバジル・ホールはセントヘレナ島に捕われているナポレオンを訪れ「琉球は武器のない平和な島」と報告しナポレオンを驚せたという。
友交的な読谷山の先人たち
親愛の情で経済をおこし文化を発展させた一三七二年中国(明との交易に出かけた泰期、読谷山花織、喜名焼など伝統文化を育くんできた先人たち、三味線音楽の始祖赤犬子も本村に祀られている。
又、一八五三年ペリー提督来沖の時、喜名部落で村民が手温いもてなしをした。
戦前の読谷村
素朴でとどかな村民の生活を示す民具。教育の盛んだった読谷村のなつかしい写真を展示。
沖縄戦
①戦時色にぬりつぶされていく読谷村
国防婦人会、出兵風景など、戦時色に染まっていく読谷村の姿が写真パネルで紹介されていました。
②米軍上陸と戦闘
四月一日、米軍の沖縄上陸、五四万人の米軍と一四五七隻の軍艦が渡具知-嘉手納の海面をおおった。五千トンに及ぶ艦砲射撃、八万発のロケット弾が沖縄全域に打ち込まれ一木一草の影すら見えなくなった。激しい戦闘、一般住民を巻き込んだ惨劇の写真、男女学徒隊、二十万人余の犠牲者を出した。
③戦時中の食糧と住民の被害
ツユクサ、カタバミなど野草しか食い物がなかった住民、日本軍による住民虐殺、集団自決、山野を逃げまどう人々、逃げ場のない住民の犠牲だけが目立った。
戦死者-二四四一三六人
日本軍 六五九〇八人
防衛隊 二八二二八人
戦闘協力者五五二四六人
住民 九四七五四人
(県立平和祈念資料館資料より)
④遺品、爆弾
二五〇キロ爆弾、機関銃、弾薬、戦時中の衣服、出兵のぼり旗など現物が展示され参観者の目をひいた。
特設コーナー戦場と化した読谷村
沖縄戦での読谷村関係の写真パネル等を展示、沖縄戦に関する図書、当時の衣料切符、愛国貯金通帳、千人針、日の丸の寄書きなどが展示された。
戦後、住民の帰村米軍基地の変せん
米軍占領当時から今日に至るまでの米軍基地の移り変わりと返還軍用地の跡地利用の状況を展示、戦後村土復興に献身したた建設隊の働きと村民の帰村。
目にあまる米軍演習
県内、村内での最近の米軍演習の激化とその被害はとどまるところをしらない。怒りに然ええた村民大会が開かれた(八月三日)
21世紀へ向けた黄金の花咲くむらづくり=読谷飛行場転用計画=
読谷飛行場用地は、読谷村第一の平野である。この平野は戦時中日本軍の臨戦飛行場として接収され、「戦争が終れば土地は返す」と説明が行われた。今それが、やっと果たされようとしている。
この用地を器として、21世紀に向けた新しいむらづくりが歩み始めるのである。それは、戦争にうちひしがれ、基地の重圧に坤吟してきた村民の未来に対する夢と希望の実現であり、子孫に対し、より人間的に、より支化的に、より平和的に生きんとするむらづくりの実践の場所である。
さらに、21世紀の歴史の批判に耐え得るむらづくりの拠点として、沖縄の亜熱帯農業の黄金の花を咲かせ、かつ公共公益施設を位置づけ、人々の英知を結集し、従来の発想を超えた人間の夢とロマンを実現する中心地域となる場所である。
御 礼
十二月八日~十一日の第一回平和創造展の開催に当り、村民はじめ県立平和祈資料館琉球新報社、屋比久英彦氏他、多数の方々の資料提供、ご協力を頂きました。
又、多くの村民の参観、村外からの参観と貴重なご意見も頂きました。大変ありがとうございました。