1945年4月5日
、午前1O時30分、私は最初の捕虜を見た。兵士達が読谷飛行場から連れて来たのだ。かわいそうに、小さな子供と女と老人ばかりだ。もしそれが少しの慰めにでもなるのなら、私も彼らとともに座って泣きたいくらいだ。この人達は、何年も何年もここに住んでいるの
だ。ここは彼らの生まれた土地で、彼らはずっと幸せだったと思う。
しかしどうだろう。いわゆる文明というものを持って我々がやってきて、人を殺し、強姦をし、そしてこの人々の生活と家を破壊した。この人達には何の罪もないのだ。彼らは
この島々の原住民で、何千年もここに住んでいるのだ。彼らは日本人ではない。また、誤
解のないように言えば、私の知るかぎりでは、日本人といえども大変素晴らしい人々のように見える。我が国の政治家達が我々に宣伝してきたことはまったくバカげたものだ。ここ
で私は、この殺戮に自分が関わったことに対し、神の許しを乞いたい。
国頭の避難小屋
沖縄児は米軍の本局.L陸.を前に、一一般住民の国頭疎開を計画した。国頭村の既存民家だけではこれだごけの人々を収容することができないため、更に収容小屋を造ることになった。これを受けて国頭村では2月17日に村長から各字に再度の「疎開者割当変更通知」があり、最終総計18,000人の避難民が国頭全域に配置され、3月21目までに5,072人か入村した。読谷山村民約6,390人の避難指定地域は国頭村浜から伊地までの8部落であった。早い時間に避難した人々は集落内の民家へ、その後は山手の避難小屋に入った。それよりさらに遅れた人達は自分たちで立木を集めて簡易小屋を造ったようである。
国頭村比地集落の山手後方に約2キロメートル程行った所に、ナゴー山アミガーと呼ばれる地域がある。現任はミカン畑になっているが、そこに戦時中、読谷村民のために比地住民によって20軒前後の避難小屋が造られた。その避難小屋について、比地及び避難した人達から聞き取り調査してこれを再現した。が、戦後44年も経っているため、`証言者の記憶は不充分な面が多く、詳細については必ずしも正確ではない。
これまでの調査によると、避難小屋は正面3間、奥行き2間半の間取りで、その中心で2間に区切り、1軒に2世帯が生活していたようである。今回は展示スペースの関係でその半分の一所帯分を再現した。