読谷村史編集室 読谷村の出来事を調べる、読谷村広報データベース

1990年1月発行 広報よみたん / 5頁

地域経営に優れた実績 宮崎賞「地域経済活動賞」受賞 高く評価された伝統文化の保存継承・創造発展 第5回宮崎賞

 地域経営に優れた実績を上げたとして去る十二月五日、神戸市の外郭団体である「神戸都市問題研究所」(理事長宮崎辰雄前神戸市長)より読谷村に宮崎賞が贈られた。同賞はこれまでに全国の六町村三団体が受賞しており、第五回目の今回は本村と共に北海道夕張市、徳島県阿波町の三自治体が受賞に輝いた。
 戦後本村全面積の七四%を米軍用地に接収され、復帰後縮小されたとは言え依然五割近くも占めており、その弊害は村発展の大きな阻害要因となっている。
 琉球処分、先の大戦そして異民族支配と苦汁を嘗めつくした沖縄県民の歴史的背景を踏まえ、人間の歴史は文化創造の歴史であるとの見地から読谷村の平和村、文化村構想が誕生するに至ったのである。爾来反戦平和の具体的取り組みの中から、返還軍用地の平和利用計画が推し進められ一「ヤチムンの里」「総合福祉センター」「体育センター」「伝統工芸センター」等々が建設された。
 「村民主体」「地域ぐるみ」「風土調和」の大いなる理念の下、平和で「人間性豊かな環境・文化村」を将来像に本村のムラづくりは続いている。
 十五世紀初頭、南蛮貿易により伝来したといわれる読谷山花織。先の大戦で壊滅的危機に瀕していた読谷山花織を村民ぐるみで九〇年振りに復活させたのは昭和三九年のこと。
昭和五九年、軍用地跡地に建設された伝統工芸センターを活動拠点とする読谷山花織事業協同組合は、現在二四〇人の組合員を擁し地域に根ざした伝統文化の継承・発展、販路開拓等文化産業としても発展の一途をたどっている。
 一方那覇壷屋焼の母体を成したと言われている喜名焼発祥の地・読谷村に那覇の壷屋から名工・金城次郎氏が移り住んだのは昭和四七年。人材誘致の始まりであった。昭和五三年に打ち出された「ヤチムンの里」構想は、ヤチムンに情熱を燃やす県内陶芸家-大嶺実清、山田真萬、玉元輝政、金城明光1の四氏を呼び寄せる事となり遂に昭和五五年七月、軍用地跡地の座喜味横田屋原に県内最大級の九連房登り窯が築き上げられ、ヤチムンの香り高い平和の煙がたちのぼったのであった。
 毎年十二月に開かれる読谷山焼陶器市には県内外から多くの陶芸ファンが詰めかけ、四万点もの焼物が売りつくされてしまう。このように「ヤチムンの里」を核として現在二一の窯元を数えるに至り、これら焼物は優れた伝統工芸作品として又、身近な生活用品として村民の問に普及し、名実共に読谷村の読谷山焼として定着した。昭和六〇年、金城次郎氏が国の重要無形文化財(人間国宝)に認定されるや一躍県内外に読谷山焼の名声は高まり、著しい産業文化の発展を遂げたのである。
 今回の宮崎賞の受賞は昭和五〇年七月一日タイムス賞「自治賞」昭和五七年四月八日村農業青年クラブの内閣総理大臣賞、昭和五九年十一月二九日の「潤いのあるまちづくり」自治大臣賞、昭和六二年十一月二〇日座喜味区の「農村アメニティー・コンクール」国土庁長官賞に次ぐもので、読谷村の地域ぐるみによるユニークな文化村づくり、そしてその経営手腕が高あかしく評価された証として、またひとつ村民の大きな誇り、自信へとつながつた。一九八○年代最後を飾るにふさわしい受賞であった。

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