喜名のお嶽から三百米程行った山の斜面に、才一尚氏没落の際にその敗残の上達が逃げかくれたと云う慶念堂がある。
現在、軍用地内で自由に立ち入りできないが、戦前までその近くには赤木の大木が昼でもなお薄略いまでに生い茂り、残党との係りは明らかではないか、相当に広い屋敷跡を思わせる礎石の囲いか残っていた。
ここは「物喰いしど我がお主」で知られる政変で、その没落した才一尚氏一族が、先王の骨と共に命からがら逃げてきたところと云われている、話によると。
尚巴志王統の噴墓は首里天山にあったが、尚徳王滅亡後、その一族平田之子、屋比久之子等が命がけでその骨を末吉万寿山の山林に移し、更にこれを城間に運び、尚金福の骨は同地シリンカーに、尚巴志の骨は読谷山伊良皆の後川佳久に、尚思達の骨は喜名の慶念堂の洞窟に葬ったが、後世になって伊良皆サシジャーに移したと云われている。