読谷村史編集室 読谷村の出来事を調べる、読谷村広報データベース

1990年8月発行 広報よみたん / 10頁

読谷山風土記一 残波岬 渡久山朝章

 読谷山はその一部が半島状となって東支那海に突き出ているが、その先端が残波岬である。
 このような岬は、地図の上でも特に目立つのだが、岬自体のもつ景観やその他の特徴はさらに同所を世に知らしめてきた。『おもろさうし』の「あおりやへかふし」に次のような「おもろ」がある。
一 きこゑ、よんたむさ、おしやけ、み、あぐて、たりす、はりす、ちやれ
又 とよむ、よんたむさ
又 かみの、ふね、もゝ、おうね
又 下の、ふね、やそ、おうね
この「おもろ」の大意は「名高く鳴り響く読谷山を拝して、本当に船は走っていることよ、上の百船も、下の八十船も」ということである。
 この「船ゑとのおもろ」でいう「よんたむさ」とは読谷山全体ではなく、残波岬ではなかろうか。
つまり読谷山を象徴する岬として「よんたむさ」と唱えたものだと思われる。
 レーダー等がなかった昔の航海は、星と地上物件を目当てにしていたようである。そのような頃、海中に大きく突出している残波岬が船をやる時の目当てとされるのは自然なことであろう。殊に残波岬近くの海は航海の難所とされ、よって先の「おもろ」でも見た通り、岬を拝みながら船を走らせたものと思われる。
 そのような場所には、よく拝所とか御願所が設けられる。宇座誌『残波の里』にある、航海の安全を祈る神の屋としての(東の神の屋・西の神の屋・潮吹がマ)がそれである。
 一方、『上り口説』には、「招く扇や三重城、残波岬も後に見て」と歌われているし、『下り口説』には「残波岬もはい並で」とある。こうして残波岬は昔から航海上の重要な目当であったし、船乗りたちにとっては読谷山を象徴するものとしてとらえられていたのであろう。
 残波岬のことを海東紀には「大西埼」としてある。「大西」は読谷山の古称だからその名を読み替えると「読谷山埼」となり、単に「西埼」とも呼ばれていたようである。
袋中上人の琉球神道記に「西埼帰帆」として次の漢詩がある。
浦渚混雲水遠幽 往来商客継船用
漁翁炸艦相交雑 暮日一摘入執洲
(浦渚雲水混じり遠くかすかにして、往来の商客船を継いでまわる。漁翁の昨艦相交雑し、日暮れて一橋いずれの洲にか入る)
 昔から人々の心を捕らえてきた雄大な残波の風景は、こうしてまた奥州岩城の出の袋中上人の詩情をかきたて、このような七言絶句を生ましめたのだろう。
〈漁翁=老海人 ■艦=小舟 ■=帆桂

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