渡具知集会所・共同作業場(公民館)新築落成並びに土地改良総合整備事業、団体営かんがい排水事業の完了記念式典及び祝賀会が七月二九日、渡具知公民館で盛大に行われた。
昭和二〇年四月一日、先の沖縄戦で米軍上陸地点となったのは渡具知海岸である。そして終戦後六年目にして米占領軍より許された渡具知区民の帰郷も、わずか一年余のうちに覆されてしまい、非情な強制立退き命令は、再び区民を郷土から引き離してしまう。これら歴史的背景を踏まえた同区民の部落再建とは平和で豊かな希望に満ちた平和郷づくりであった。幾多の苦難を乗り越えて来た区民の団結と英知の証として又、新しい部落づくりの拠点として、今渡具知公民館は同区西原に堂々たる構えをみせている。
村はじめ国、県の深い理解のもと、あらゆる補助事業を導入し、部落再建のため取り組んで来た区民の努力は、復帰先地公共施設整備事業等にみられるように県下の先駆けとしても大きく貢献したといえる。
式典では、大湾近常建設委員会事務局長よりの経過報告のあと、城間勇渡具知区長、大湾稔渡具知集会所建設期成会会長、屋宜必良渡具知農用地利用改善組合長、波平廣次渡具知土地改良区理事長らがそれぞれ喜びのあいさつをした。
強制立退きにより渡具知区民はそのほとんどが比謝区西原での生活を余儀なくされ、昭和四八年九月十五日の渡具知部落軍用地の解放(トリイ通信施設の一部返還)を待って、部落再興に向け立ち上がったのである。昭和五〇年、農業振興地域の指定を受けると、生産性をあげる農用地の整備、換地による農村集落の整備や公民館敷地、区民運動場の整備等の早期実現に向け、区民の英知が結集されたのである。
米軍によって踏み荒らされ、荒廃しきった軍用地跡地の地籍明確化作業は、所有権の確定という困難な作業にもかかわらず、理解ある区民の協力のもと、集団和解方式「トリイ方式」による地籍調査が進められ、後のいわゆる「地籍明確化法」制定へと実を結ぶ。
昭和五二年からの「トリイ通信施設復帰先地公共施設整備事業L昭和五四年からの「土地改良総合整備事業」五五年の「農業構造改善事業」、五七年からの「団体営かんがい排水事業」そして平成元年度の「構造政策推進モデル集落整備事業」等々の導入により、農業基盤の整備、農村集落の整備、ビニールハウス団地の造成、水の供給体制が整えられ、昭和五三年結成された渡具知野菜生産組合が事業主体となり、キビ作からスイカ、メロン栽培への転作が進み、小菊を中心とした花卉農家も増えている。そして遂に生産組織施設、集落環境施設としての共同作業場、集会所完成をみるに至ったのである。夢と希望に満ちた渡具知区民は、同区の更なる発展の為、益々情熱を燃やしている。