読谷村史編集室 読谷村の出来事を調べる、読谷村広報データベース

1990年9月発行 広報よみたん / 10頁

読谷山風土記二 泊城 渡久山朝章 渡具知泊城

 泊城は、渡具知の集落の南西海岸にある景勝地である。海に張り出した奇岩怪石は、大きな洞を作りあるいはトンネルを形成して自然の造形の妙を現出して見せる。ここは夙(つと)に名勝として知られ、かつては沖縄県営鉄道嘉手納駅の待合所に「琉球や耶馬渓・泊城」という標題の大きな写真でも紹介されていた。
 城といえば、いかにも曰くありそうだが、岩屋入口近くにセメント造りの説明板が建てられ、それには次のようなことが書かれている。

渡具知泊城
  今から六〇〇年前三山戦国時代中今帰仁城主按司は臣下本部大主の謀反にあいて城奪〈わ〉れる一時世替〈わ〉りの騒動の中にあったが按司の嗣子千代松金は名お(を)丘春と改め読谷山間切北谷間切砂辺村へ落ち延び読谷山大木徳武佐で難お(を)遁る。丘春仇討の幾(機)会お(を)待ち十八年後に旧臣お(を)集め本部大主お(を)討って本懐お(を)とげ城奪返す
 然るに次の代後北山の伯尼芝に攻められ中北山は亡んだのである時の若按司は本部具志堅で死す隠居の身仲宗根按司丘春は戦に追〈わ〉れ住みなれた読谷山間切に逆戻り当地にて城奪〈い〉返しの態勢お(を)整〈え〉たが力及〈ば〉ず遂に当地にて終身す按司丘春そして臣下の骨玉は東の方鷹の目洞窟に葬〈ら〉れる以後此の一帯お(を)渡具知泊城と称す
 一九七九年十二月二十二日

 海岸べりわずかな規模の泊城が城砦としての機能は果たせなかったとしても、敗残の身を隠す位の余地はあったかも知れない。
 真栄城兼良著『北谷村誌』に「北山の丘春と砂辺村」ということがある。そのあらましは次の通りである。
 「北山落城の際若按司丘春は久志間切に難を避けたが、後に北谷間切砂辺村に移った。丘春と砂辺村の豪族の娘はともに掌に半月形の印があり、この二人は天の配合による男女ということで夫婦の契りを結んだ。
 北山討ち入りに当り同行を申し出る妻に対し丘春は、留まって勝利を祈り吉報を待て、と言い残し北山へ発った。
 待てど暮らせど音沙汰がないので、彼女は北に向かって歩き、渡具知で一泊すると、丘春が敵に捕らえられた夢を見て絶望し、残波で身を投げたが、運よく救われる。そして谷茶に着くと、丘春の勝利の報が待っていた」というハッピー・エンドだが、前の泊城の説明板とも思い合わせて読むと面白い。

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