都屋の集落のはずれ、漁港の南東近くにテラのゴウ(壕)と呼ばれる洞窟がある。
三方は畑に囲まれ、残りの一方、つまり海に面した側はフェンスや防潮林で漁港用地と境界をなして
いる。
ここにあるテラのゴウ(壕)とは、芝生の広がりとモクマオウの木立がある広場の中央部に、垂直に口を開いた鍾乳洞なのである。今では洞窟内のヤブニッケイやガジマル等の木が大きく伸びて、写真で見るように洞窟を覆い隠さんばかりである。
下に降り立つと、洞窟東南方向に横穴となって七、八十メートルも伸び、やがて地上に出る。一方、北西に伸びる横穴は、十数メートルで水をたたえた洞窟となり、その奥をきわめた人はいないという。
ここは地元都屋の拝所となっていて、毎年旧暦九月十八日には「ティラ拝み」と称してお参りしている。しかしここは地元の人だけの拝所だけではなく、村内各地や村外からの参拝者も少なくない。
『渡慶次の歩み』によると「字では清明の節の入りの日、役員が集まり、餅、豚肉、豆腐等の御馳走を重箱に詰め、役員は三組に分れ〈中略〉三組は波平大主の墓、都屋トクブサーを詣でる」とある。ここで言う都屋トクブサーとは「ティラの壕」のことである。言い伝えによるとここの由来は、やはり北山の乱に際して、落ち延びた按司一族が身を隠した所だという。そうなると大木徳武佐と同様な避難所であったということになる。そのことはまた『渡慶次の歩み』に見える「トクブサー」という名が物語っているのではなかろうか。もしこの言い伝えが真実ならば、大木の「徳武佐」より都屋の「ティラの壕」の方が隠れ場所としてははるかに勝ることは言うまでもない。
さて、「トクブサー」と言い、あるいは「徳武佐」とも表記するこの種の拝所は、その言い伝えから考え、この地で難を逃れた徳のある武士ということから起こったものとすると、漢字で表記するには「徳武者」としたほうが妥当ではないかとも思ったりする。
この「ティラの壕」は、昔の落武者の難を救っただけでなく、戦時中は地元都屋の人々の避難洞窟ともなり、米軍機の爆撃から多くの人命を守ってきた。そして一帯は米軍の沖縄本島作戦時に上陸地点となり、早くも米軍による被難民収容所も設けられたが、被難民たちは日本軍の特攻機の襲撃にはこの洞窟で難を避けたのである。
こうしてこの洞窟はますます人々の崇める所となり、都屋老人会(古堅宗喜会長11当時)は昭和四十八年九月二十九日にコンクリートお堂を建立した。
なお、「ティラの壕」という名は元々「ティラの洞窟(がま)」ではなかっただろうか。壕というのは池や堀、あるいは溝(みぞ)のことで地下の洞窟(がま)ではない。多分防空壕ということから「壕」と言ったのだろう。