読谷村史編集室 読谷村の出来事を調べる、読谷村広報データベース

1990年12月発行 広報よみたん / 9頁

読谷山風土記五 観音堂 渡久山朝章

 「旅の出発ち観音堂、千手観音伏し拝で、黄金酌取て立ち別る」ご存じの『上り口説』の一節である。もちろんこの歌は、首里を発ち那覇を出て、鹿児島までの道中を歌ったものだからここでいう観音堂は首里のものである。
 観音(観世音菩薩)は、大慈大悲で地獄の苦悩を救い、諸願成就および出産平穏等現世利益の仏様として古くから庶民信仰の中心となってきた。観世音菩薩は、聖観音のほか千手・十一面・如意輪などと、その姿によって多くの名があると言われている。
 ところで『上り口説』では千手観音を「シンティクワンヌン」と歌っているが、正しくは「せんじゅかんのん」というのだそうである。
 千手観音とはいえ実際には二十七面四十手の観音だが、一手ごとに二十五有界を救うということから、「四十掛ける二十五は千」というわけで千手観音の名があるという。
 沖縄における観音堂(寺)は、首里と金武のものがよく知られている。
 首里の観音堂は、『琉球史辞典』によると、「首里山川町にある。慈眼院の所属である。慈眼院は尚豊王の父、大金武王子尚久が祈願納受のため、一六一六年に創建したものである。天界寺の末院である。〈中略〉古来海外渡航者の崇敬があつく…云々」とあり、金武の観音寺については、「金武村字金武にある。真言宗に属し、山号金峰山、俗に金武の寺と称す。〈中略〉尚清王(一五二七~一五五五)の時僧日秀初めて富蔵湊に来て寺を金武に創建し、自ら弥陀・薬師・観音の三像を刻して奉安したとしている。
 読谷山の観音堂は、喜名の集落の西外れの丘にある。ここの観音像は、沖縄に三体しかないものの一つという人もいる。
 ここに観音堂が建立されたのは琉球王朝の意向によると言われているが、その年代は定かではない。
 喜名には尚纐王(ボージウスー)が遊んだという口碑が残っている。もしこの王の意向で観音堂の建立がなされたとするなら、それは今(一九九〇)から百六十~二百年前になるだろう。民間口承では百四十~五十年前とも言っている。
 なお、別の言い伝えでは、読谷山地方から首里や金武の観音堂参りともなると余りにも遠く、一般庶民にとってはなかなか思うに任せなかった。そういうことで、王府に願い出て首里の観音堂からこの地へ観音様を勧請(かんしょう)したとも言っている。しかし勧請の時代についてはつまびらかではない。
 いずれにしてもこの観音様は近隣町村の人々の尊崇を集め、庶民の諸願成就のお参りは続いており、毎年旧暦の九月十八日には例祭が執り行われている。

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