読谷村史編集室 読谷村の出来事を調べる、読谷村広報データベース

1991年3月発行 広報よみたん / 7頁

【見出し】第8回村子ども会フェスティバル日頃の文化活動の成果を披露 多くの参加者でにぎわう 2月10日 【写真:自主、主体的な子ども会活動】

 私の親せきのおばさんは、主婦業のかたわら副業として二〇年前から読谷花織をしています。 村の六ヶ月講習で始まり、各段階の講習を受けて、織り始めてから、いつの間にか二〇年が過ぎてしまったというのです。今では、機織り機の前に座っていないと落ちつかないとのことです。
 私は、おばさんに、機織り機を見せてもらい、実際に織ってもらいました。
 機械には、たくさんの糸がかかっていました。
 六四〇本もあるのです。おばさんはタオルを織ってくれました。はた織り機の糸を足で引いて、全神経を集中して織っていました。
 横で見ているだけでも、根気のいる仕事だと思いました。
 「おばさんは、やめたいと思ったことないの」
と、私はつい口から出てしまいました。
 「そりゃあったわね、何回も。でも、はたを織る苦労が大きければ大きいほど、織り上がった時のうれしさは、口では言えないね、これが楽しみで、今日まで織り続けたんだ」と、話していました。
 昔は、糸巻き機(ヤーマ)は、手で回していたが、今は電動式になっていて、おばさんのだんなさんが、扇風機の古モーターを利用して、糸巻き機を作ってくれたから、大助かりしているとのことです。
 おばさんは、独自の工芸と熟練した技術を身につけるためにも、時間をみはからって、がんばっているのです。
 私はおばさんの家からの帰り、「中央図書館で読谷山花織について調べてみました。
 今から五〇〇年くらい前に、インドなどの南方から長浜港を拠点として栄えたそうです。
 明治の中頃まで、さかんに織られたそうですが、安い布地が普及したため、いつしか途絶えてしまったのです。しかし、昭和三十八年頃、読谷山花織はよみがえったのです。
 昭和四十五年に「読谷山花織愛好会」を結成し、昭和五十一年「読谷山花織事業協同組合」が設立されたのです。
 工房は、楚辺工房、波平工房、座喜味工房があり、出来上がった織り物は、読谷山花織事業協同組合に持って行<のです。  三ヶ所の工房で生産されるものについては、個人の一切の直販は許されないとのことでした。  現在、組合員数は二四五人で、その内、本格的に生産に取り組んでいるのが一三五人で、残り一一〇人は自宅なので、自分のできる範囲で生産を行っているそうです。  花織の生産量は、年々増加しているとのことですが、一反の価格も二倍になっているそうです。 最近では、新しい機織り機や工法が出てきて、以前より楽に出来るようになってきているとのこと、私はとても嬉しく思いました。  この読谷村にこんなにたくさん本職として、花織をしている方々がいる。そして若者にどんどん読谷山花織は受け継がれていく。読谷の伝統工芸、地味だけど、歴史の息吹きがそこにあるように思える村おこしの一つです。この花織を私達の代で、たやすことがないように、花織の技術を私も学ぶつもりです。いつの日か、私が織った花織を母にも着てもらいたいし、私自身も着けたいのです。  私はこの読谷山花織をたいへんほこりに思っています。そして、読谷村に生まれて、ほんとうに良かったと思います。

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