読谷村史編集室 読谷村の出来事を調べる、読谷村広報データベース

1991年3月発行 広報よみたん / 10頁

【見出し】読谷山風土記七 喜名番所 渡久山朝章 【写真:1】

 番所について東恩納寛惇の『南島風土記』には次のように書かれている。
 「村には村屋があり、間切には番所があって公務を管掌した。番所はバンジョと訓み、方音はバンジュとひびき、通常所在の村名を以て呼ばれる事、例へば読谷山間切の番所を、喜名番所と称へる類である。雅語の番台は、八六の調で行くために、バンドコロとも唱へる事、例へば名護の番所(ナゴのバンドコロ)の類である」
 これは「番所」は訓読みするとバンジョで、方言ではバンジュと言い、八六の調子で歌う歌詞等の場合は、バンドゥクルとも言う。
 そして番所の名は、その置かれている地名を付けている一ということである。
 番所は首里王府から各地へ通ずる宿道(幹線道路)の要所にあって、その役割は王府から布達の宿次(中継業務)をすることと同時に、管内の司法行政一切を管掌する公衙でもあった。つまり琉球王府の地方事務所のようなものだったが、その費用は各間切の負担であったといわれている。
 読谷山の番所は、当初座喜味にあったと思われる。徐藻光の『中山伝言録』(一七二一年刊)の属村県(今日でいう字のこと)に、「読谷山亦称座喜味」とあり、これは「読谷山という字は座喜味ともいう」ことで座喜味は同村(ドゥムラ、間切名と同名で間切の中心地。普通ここに番所が置かれる)だったと思われるからである。
 一方『琉球国旧記』(一七三一年刊)には「読谷山駅(在喜名邑)」とある。これは読谷山駅は喜名村にあるということで、この場合の駅とは番所のことで、同書には「駅(俗叫之日番所)」とあり、これは「駅とは、俗にこれを叫(よ)んで番所という」ことなのである。
 この二つの書の刊行年から考えると、喜名に番所が置かれたのは一七二一年から一七三一年の間だったと思われる。
 喜名番所は中頭方・西宿の要点ということに留まらず、国頭方・西宿への宿次としても大変重要な存在で、それだけに多くの歌や組踊の詞としても残り、人々によく知られてきた。「多幸暗山フェーレーてぃんど一、喜名番所に泊まらなやー」とか、組踊「姉妹敵討」の「喜名番所越えての田幸山、なれぬ山路やあゆであゆまらぬ」等の歌や詞は「音に聞く喜名番所を過ぎると、いよいよ山原だ」という思いがこもっているようである。
 こうして喜名番所は多くの有名無名の人々の往還を見守り、時に一夜の宿も提供したであろう。一八五三年六月三日には、ペルリ提督配下の探険隊もここで休憩して、地元民から鶏や卵、それにキュウリ等のサービスも受けている。
 写真は同行の画家ハイネが描いた公館(喜名番所)のエッチングである。

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