読谷村史編集室 読谷村の出来事を調べる、読谷村広報データベース

1991年5月発行 広報よみたん / 5頁

【見出し】平成二年、国勢調査終わる。村人口三〇、七五一人

 総務庁統計局は、平成二年国勢調査結果の速報として、「要計表による全国都道府県市区町村別人ロ」を公表しました。
 平成二年十月一日現在で実施された国勢調査は、全国では約八十万人の指導員、調査員を要し、読谷村においても指導員十三人、調査員一六五人が調査事務に従事し、無事調査をおわりました。
 調査に御協力をいただいた全村民、調査員、指導員に感謝の意を表するとともに国調シリーズを三回にわたって掲載します。
 国勢調査は、日本国に住んでいる人すべてを対象とする最も基本的な統計調査で、国内の人口の実態を明らかにすることを目的としています。
 国が行う統計調査は、そのほとんどが「統計法」に基づく指定統計調査として実施されていますが、国勢調査はその第一号に指定されています。
 「国勢調査」は英語のセンサス(CENSUS)を訳したものです。センサスとは、全国的な全数調査を意味しますが、その語源は、古代ローマで、センソールという職名をもった市民登録などを担当する役人が人口調査を行ったことに由来しています。
 日本でセンサスの訳語が国勢調査という呼び方に定着するまでには、様々な経過がありました。
 書籍、公文書等で使用されたものを年代別に揚げてみますと、
 人口取調之法(明治六年、杉享二建議書中)
 人口大検査 (明治七年、津田真道訳書中)
 現在人別調 (明治十五年、杉享二報告書中)
 民口調査  (明治二二年、呉文聡訳書中)
 国勢大調査 (明治二六年、白井喜之作学会誌論文中)
 民勢大調査 (明治二九年、渡辺洪基外請願書中)
 国勢調査  (明治二九年、衆議院建議書中)
 となり、「国勢調査という訳語であらわれたのが、明治二九年ということになります。
 国勢調査実施への動きの中心となったのは、明治十一年(一八七八年)杉享二を中心に設立された東京統計協会、又、統計学研究の目的で明治九年(一八七六年)に設立された統計学社などの民間団体でありました。
 杉享二〈一八二八年八月生、長崎県。一九一七年没 (八九歳)〉は、わが国の統計の父ともいうべき人で、明治四年に設置された統計局の前身「太政官政表課」の中心人物でありました。
 杉享二は、幕末、勝海舟の塾頭をつとめるなど当時としては、開明的な人物で、早くから統計調査の重要性を認識していた人でした、杉享二は、後の日本統計年鑑の前身である辛未政表を初めて刊行するなどの功績がありましたが、中でも最大なものは、「甲斐国現在人別調」の実施である。
 杉享二は、これを全国的な人口センサスの試験調査として実施した。そのもととなったのは、彼が新政府に招かれる以前、徳川家の静岡藩で行った駿河の国の人口調査でありました。
 調査は、明治十二年十二月三一日午後十二時現在で実施され、調査事項は、①住地及び住家の持借、②世帯の数(一人暮し及び家族暮し)、③男女の別、④年齢、⑤身上の有様(未婚、夫婦等)、⑥職業(本業及び兼業)、⑦宗旨(神道及び仏法各宗)、⑧生国、⑨不具などとなっています。集計は調査票が統計院(明治十四年の官政改革による)に進達されてから一年半を要し、明治十五年十月に完成しました。
 この調査は、全国的なセンサスを実施するための試験調査として実施されたにもかかわらず、諸般の事情によって遂に明治の時代には国勢調査は実施されませんでした。
 大正九年(一九二〇年)に第一回の国勢調査が実施されました。それ以前に実施に向けた多くの動きがあったが、第一次世界大戦への参戦などもあって実施できなかった。その動きの概略は、次のとおりです。
 明治二九年(一八九六年)
  「国勢調査に関する建議案」
 が、貴衆院で可決される。
 明治三五年(一九〇二年)
  「国勢調査に関する法律」が公布される。これは、議院提出法案で、明治三八年を初回にし、十年  ごとに実施することを決定する。
 明治三八年(一九〇五年)
   日露戦争のため実施できず
 大正四年(一九一五年)
  第一次世界大戦により実施不能。
 大正六年(一九一七年)
  「国勢調査実施に関する建議案」→実施年、大正九年(一九二〇年)に決定。
 翌大正七年(一九一八年)予算案が成立して、大正九年に第一回の国勢調査の実施が決定しました。杉享二を中心とする統計先駆者たちの努力が実を結んだのです。予算案公表の日は、くしくも最初の人口センサスの試験調査ともいうべき甲斐国現在人別調を明治十二年(一八七九年)に行った杉享二の長逝の日でありました。八九歳の長寿でした。
 大正九年の国勢調査では、国、地方をあげて宣伝歌謡の募集を行うなど積極的な広報のお陰で「一人もれなく、ありのまま」という宣伝が全国に浸透しました。平家の落人が、出向いてきた調査員に「今、源氏はどうしているか」と尋ねたという話まででてきたということです。平家の話はともかくとして、当時の新聞によると、各地の山中でそれまで知られていなかった集落が発見されるということもあったようです。次号は、いまでに行なわれた十五回の国勢調査の流れをおおくりします。

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