読谷村史編集室 読谷村の出来事を調べる、読谷村広報データベース

1991年6月発行 広報よみたん / 10頁

【見出し】国政調査シリーズ(二)国政調査の流れ

 大正十四年の国勢調査-明治三五年の法律では、国勢調査は十年ごとに行うことになっていましたが、それでは人口変動の実態を把握するのに不十分であり、行政上、経済上の基礎資料を得るために、大正十一年で法律の一部改正がなされ、中間年の五年目に簡易な国勢調査を行う規定が設けられ、大正十四年に第二回国勢調査が実施されました。ちなみに、読谷村の人口は、一五四六〇人でした。
 昭和五年・十年の国勢調査-戦前の読谷村の人口は、移民や出稼ぎによる多少の社会増減がみられたものの全般的に人口変動は少く昭和五年、一五八三五人。昭和十年、一六四〇五人と推移しています。
 昭和十五年の国勢調査-昭和十二年(一九三七年)、中国北京の南効外、虞溝橋事件が発端となった日中戦争が長期化し、昭和十六年(一九四一年)十二月八日未明太平洋戦争が始まりました。国家総力戦体制の中での国調実施年でした。調査結果は戦時中のため、基本的な入口が発表されただけで、結果表は倉庫の中に眠り、戦後になってやっと日の目をみるという状況でした。
 昭和二〇年の国勢調査-昭和二〇年(一九四五年)は国勢調査実施年でしたが、大戦による資材、労務人員の不足、輸送手段の不備等により不実施となりました。
 昭和二二年の国勢調査-昭和二〇年の国勢調査は終戦直後で中止になりましたが、本土では臨時の国勢調査が実施されました。
 沖縄県は、太平洋戦争の敗戦により、日本国より分離されて、その年は実施されていません。又、その後、昭和五〇年(一九七五年)本土復帰後初の国勢調査が実施されるまでの間は沖縄独自の国勢調査が行なわれるということになります。
 昭和二五年の国勢調査-大戦敗戦後に初めて実施された調査で、軍政府布今に基づいて行なわれた。
実施日も他県の十月一日と異なり、十二月一日現在で実施されました。読谷村においては、戦争の影響により、五五二八名(昭和二一年十二月現在)まで人口が減りますが、その後、帰村、復員、引き揚げが進み、この年は、一六五七四人となって、戦前の人口規模まで回復しました。
 昭和三〇年・三五年・四〇年の国勢調査-沖縄県は昭和二七年(一九五二年)四月、琉球政府が設立され、その中に総計局が設置されました。昭和二九年(一九五四年)九月には「琉球統計法」が制定され、それに基づく調査が昭和三〇年十二月、「全琉臨時国勢調査」として実施されます。昭和三五年調査までは十二月一日現在で調査されたが、昭和四〇年の調査より十月一日現在となります。
 昭和四五年国勢調査-この年の調査は、日米琉諮問委員会の勧告に基づいて、戦後初めて本土における国勢調査と同一に行なわれ、本土と同一の調査時期、調査対象、調査事項、調査方法によって行なわれました。
昭和五〇年国勢調査-昭和四七年(一九七二年)五月、祖国復帰が実現し、新生、沖縄県がスタート、企画部統計課が設置されます。そして、昭和五〇年(一九七五年)十月、復帰後最初の国勢調査が実施されます。その年は、沖縄海洋博覧会が本部町で開催された年でもあります。
 昭和五五年・六〇年・平成二年国勢調査-読谷村の人口は昭和四七年の日本復帰まで緩やかに人口増加が続いてきました。しかし、復帰を境にしてそれまでマイナスであった社会動態がプラスに転じ海洋博などの公共事業の進展とあいまって急速な伸びがみられた。その後は急激な人口増加はなく九・四%(昭和五〇~五五年)。七・六%(昭和五五年~六〇年)。七・七%(昭和六〇年~平成二年)。となり、約二〇〇〇人規模で安定した推移を示しています。復帰後四回目に当る平成二年の国勢調査人口は、三〇七五一人となり、戦前昭和十五年の約一・九倍、世帯数八〇三七は約二・四倍となっています。
 次号は、平成二年国勢調査の票計表人口の速報の数値等を掲載します。

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